那智の滝の保全

那智勝浦町では今年1月に町長の諮問機関で「那智の滝保全委員会」が設置されました。今月5日に第1回の会議があって、町長が「那智の滝が流れる姿を未来永劫守っていかねばならない」というような挨拶をされたようです。
http://www.agara.co.jp/sp/news/?i=365470

今から100年ほど前に南方熊楠は、那智の滝の背後の山林を伐採したら那智の滝の水源は涸れ尽くすだろうと伐採に反対しました。

さて霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐り尽され、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候。
松村任三宛書簡、明治四十四年(1911年)八月二十九日付『全集』七巻)

そう熊楠は警告し、那智の滝の水源林の保全を訴えました。

熊楠が100年前に行ったことをいま私たちは追いかけています。私たちはまだまだ全然熊楠に追いつけていません。

熊野地方唯一の前方後円墳

和歌山県那智勝浦町下里にある下里古墳。
熊野地方唯一の前方後円墳です。

前方部はすでに削り取られていて円墳のように見えます。

築造時期は4世紀末〜5世紀初頭(古墳時代中期)頃と推定されます。その頃、下里の辺りが熊野国(大化の改新後に紀伊国に併合)の中心的な場所であったのでしょう。

前方後円墳は、地方の首長たちがヤマト王権と同盟関係を結んだり支配されたりした結果、全国に普及した古墳の形だと考えられるので、「地理的に大和の近くであるにもかかわらず、時期的に前方後円墳を構築するのが遅い。容易に同盟しなかったのでは」との説もあります。

熊野には丹敷戸畔(ニシキトベ)という女性の首長がいて、神武の軍勢と戦ったとされますし、熊野の人々はヤマト王権との同盟を長らく拒んだのかもしれません。

下里古墳に葬られているのは丹敷戸畔より後の熊野国の首長かな? その首長は男性だったのか女性だったのか。ニシキトベの伝承を残す地域としては女性首長が被葬者であってほしいなと思います。

那智勝浦町文化協会創立20周年記念の文化講演会「下里古墳から分かること」、10月14日(日)、那智勝浦町体育文化会館にて開催されます。