古い書物のいくつかに那智の滝が逆流したとの記述があります。
鎌倉時代に成立した日本の仏教についての歴史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に「真義というお坊さんが那智の滝の滝下で般若心経を読んだところ、滝の水が逆流した」とあります。
釋眞義、姓平氏、勢州多氣郡人也。學相宗于興福寺空晴。適詣紀州那智山。歸時脚大腫不能行。入坊即差、又發亦腫。諸苦行皆曰、恐神駐公行耳。公盍獻法施。義乃到瀧下講般若心經。私念、神若歆講、乞見祥異。于時瀧水逆流。衆人無不感嘆。天延三年、爲維摩講師。正暦二年爲僧正。長保元年二月七日逝。
『元亨釈書』https://www.zenbunka.or.jp/data/text/entry/post.html
また同じく鎌倉時代に成立した仏教説話集『撰集抄』(せんじゅうしょう)には「仲算というお坊さんが那智の滝の滝下で般若心経を読んだところ、滝の水が逆流し、滝の上に生身の千手観音が現われた」とあります。
さても、この人、若くおはしましける時、仲算大徳にともなひて、熊野へ参り給へりけるに、那智の御滝のすそにて、仲算大徳、心経を貴く読み給へりければ、滝、逆に流れて、滝の上に生身の千手観音のまさしく顕れていまそかりけるを、まのあたり拝み給ひけるとなん。仲算大徳の徳行はさることにて、拝み給へる林懐、ありがたきことになん。そのころ申し侍りけるとぞ。
『撰集抄』林懐僧都http://yatanavi.org/text/senjusho/m_senjusho06-03
真義も仲算も平安時代中期の法相宗の僧侶。法相宗は奈良仏教の一派です。
法相宗のお坊さんが那智の滝の下で般若心経を読んだところ滝が逆流した、と書かれています。
お坊さんが神社で般若心経を読むというのは、今だと何か変に思う人もいるかもしれませんが、明治の神仏分離より前には普通のことでした。
熊野の神様は明治の神仏分離以前には熊野権現と呼ばれました。権現とは仮に現れたものという意味です。仏様が仮に神様の姿で現われたのが権現です。熊野の神様の本体は仏様。熊野の神様は仏様と一体でした。
そもそも熊野那智大社には神仏分離以前には神職も巫女もいませんでした。神社を運営していたのは社僧という神社に属するお坊さんでした。
今はユネスコの無形文化遺産に登録されている那智の田楽も、那智の社僧が行う仏教芸能でした。ですので明治の神仏分離により1度は廃絶しました。
たまたま那智の田楽はその後、復興を遂げることができましたが、明治政府の神仏分離政策により多くの大切なものが日本から失われていったはずです。神仏分離は日本の文化、日本の伝統を破壊する野蛮な行いでした。
那智にはいくつものお寺や僧侶が住む建物がありましたが、神仏分離によりその多くが取り壊されました。 那智大社に隣接する西国三十三所霊場の第一番札所の如意輪堂、今の青岸渡寺はさすがに取り壊しはされませんでしたが、仏像仏具類は他所のお寺に移されて空堂とされました。その後、神社から独立する形で復興することができましたが、いっとき、数年の間だけでしたが、観音霊場西国三十三所の第一番札所が失われていた時期がありました。
神仏分離させられ、修験道も禁止され、熊野はめちゃくちゃにされました。
明治以降、政府によりその価値を否定されてきた熊野ですが、今では世界遺産です。
紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録される際に、とりわけ評価されたのが「神道と仏教のたぐいまれな融合」でした。それは「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す」ものでした。
明治時代の日本で否定されたものが、逆に世界で評価されました。
那智の滝を御神体とする飛瀧神社は神仏分離以前には飛瀧権現と呼ばれました。つまり飛瀧権現の名は、那智の滝が神であり仏であるということを表しています。その名は、自然崇拝を土台にしてその上に神様と仏様がある、という熊野信仰のあり方を伝えてくれています。
自然への敬意や異なる宗教の共生、異なる文化の共生は、いま世界に必要とされていることです。熊野は世界にとって重要な場所となりうるのではないか。そんなふうに私は考えています。