復曲能「名取ノ老女 」

東北地方太平洋岸における熊野信仰布教の拠点であった宮城県名取市で先日上演された復曲能「名取ノ老女 」。

地謡で参加された鈴木啓吾さまからパンフレットや手ぬぐいをいただきました! ありがとうございます!

名取ノ老女 」は熊野の山伏が名取の老巫女に梛の葉を届けるお話。熊野の神様の霊験を伝える能の演目。復曲された「名取ノ老女」では名取の地名が読まれたり、「熊野の本地」が語られたり、変更点がいくつかあります。

名取ノ老女
名取ノ老女

和泉式部の霊と一遍上人、熊野と縁の深い2人の共演

和泉式部(小倉百人一首より) パブリック・ドメイン, リンク

本日3月21日は和泉式部忌。

平安時代中期の歌人・和泉式部は伝説の世界では熊野と絵縁の深い人物です。生没年は不詳ですが、3月21日を命日とする伝承があります。

能に和泉式部の霊と、熊野信仰を全国に広めた鎌倉新仏教の一派「時衆」の開祖・一遍上人が登場する演目があります。

「誓願寺」という世阿弥作の演目で、あらすじは以下の通り。

熊野で熊野権現から夢告を授かった一遍上人は都に上り、誓願寺で「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」と記した念仏札を配ります。そこへ1人の女が来て、念仏札の「六十万人決定往生」の文言に「60万人しか往生できないのか」と不審に思い、一遍上人に尋ねました。

一遍上人は「これは熊野権現から授かった『六字名号一遍法・十界依正一遍体・万行離念一遍証・人中上々妙好華』の四句の文の上の字を取ったものだ」と教え、念仏の功徳を説きました。

女は喜び、誓願寺の額を上人自筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号に代えてくれと願い出ました。そして、女は「自分はこの寺に墓のある和泉式部だ」と名乗り、消え失せました。

上人が額を書き上げて仏前に手向けると、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、舞楽を奏し、上人の徳を讃え、上人自筆の六字名号の額を礼拝しました。

熊野と縁の深い2人の人物、和泉式部と一遍上人の共演です。

謡曲「誓願寺」:み熊野ねっと分館

9/19は苗字の日

9月19日は苗字の日。1870(明治3)年9月19日、太政官布告により一般市民も苗字を持つことが許されました。

現在日本で2番目に多い名字は鈴木ですが、その始まりは熊野にあります。熊野本宮または新宮の神職に関わる家柄にあった人物が鈴木を名乗ってから始まった名字です。鈴木氏は12世紀頃に熊野から紀州藤白に移り住み、熊野詣の道中における要所・藤白王子(現・藤白神社、和歌山県海南市)の神職を代々世襲しました。藤白の鈴木氏は全国に散らばる鈴木氏の本家筋とみなされました。

スズキは熊野地方の方言です。刈取った稲束を積み上げたものを熊野ではスズキ(あるいはススキ)と言いました。または積み上げた稲束の中央に立てられる1本の木の棒を「聖なる木」という意味でスズキ(ススキ)と言ったともされます。鈴木の漢字はその当て字です。

もともと熊野地方の方言であった言葉が現在日本で2番目に多い名字になっているという現実は、かつての熊野信仰の影響力の大きさを今に示してくれています。

藤白の鈴木氏が主人公の能があります。能「鈴木」。「語鈴木(かたりすずき)」「重家」などとも呼ばれ、室町時代後期には成立していた能ですが、江戸時代中期には上演されなくなったようで、現在では廃曲となっていました。

主人公の鈴木三郎重家は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての人物で、藤白鈴木氏の当主。源義経に従い、源平合戦に活躍し、奥州平泉で義経と最期を共にしました。

長らく廃曲となっていた能「鈴木」は観世流能楽師の鈴木啓吾さんにより昨年2018年3月に復曲能「鈴木三郎重家」としておよそ300年ぶりに上演されました。

そしてその再演が今年2019年11月24日(日)、東京・新宿区神楽坂の矢来能楽堂にて行われます!

第21回一乃会 復曲能「鈴木三郎重家」

第21回一乃会
2019年11月24日(日)15時
矢来能楽堂
解説:小林健二
仕舞『屋島』 観世喜之
仕舞『橋弁慶』 観世喜正・観世和歌
狂言『成上り』 野村萬斎
復曲能『鈴木三郎重家』 鈴木啓吾

第21回一乃会 復曲能「鈴木三郎重家」

チケットはこちらから。
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