明治時代から大正時代初めにかけて盆踊りは世界に恥をさらす風習だとされ禁止されました。
今回紹介するのは大正2年(1913)8月17日に起こった和歌山県北山村での盆踊りを強行しようとする若者と中止解散を命じた警察官との間で起きた騒動について和歌山県知事が内務大臣に報告した文書。
盆踊禁止に対し青年暴行の件報告
本月17日県下東牟婁郡北山村において盆踊制止のため巡査抜剣して人民に負傷せしめたる云々県下各新聞紙に記載これあり候。
□事実は本月17日右北山村大沼青年等は雨乞踊と称し盆踊を為さんとし一面同地区長に一面駐在巡査にこれが黙許を乞いたるも巡査は断然これを却け区長もまたその不可なるを諭したり。
然るに青年はこれを服せずして踊りを開始せるより巡査は現場に出張し穏にその不都合を諭し中止せしめたるも、多衆は種種口実の下にその場に止まり容易に解散せざりしも、そのうちに年長者等は今後決してかかる不都合をなさしめざるべきを誓いたるを以て一時その場を引き揚げたるに、午前1時頃に至りまたまた同一場所において踊を開始せるを以て巡査は再び現場に至り中止解散を命じたるに一時その命に従い中止したるも巡査を囲繞して種種悪罵を加えしきりに投石し、また背後より帽及び佩剣を奪わんとするなど形勢甚だ危険に迫りしがため巡査は抜剣しこれを制したるにその勢に辟易し群衆は巡査の身□を退散したるを以て巡査はすぐに剣を収めたり。
然るにこの騒擾中常に青年を制止し巡査を庇護し投石乱下の際洋傘をかざして巡査を援護せし久保庚七及び青年の鎮撫に力を居りたる中石寅一の両名は眉間に各長さ1寸深さ骨膜に達する創傷を被り一時その場に昏倒し巡査もまた2、3箇所の打撲傷を受けたるも疾病休業に至らざる程度にこれあり候。
右久保中石の創傷は医師の診断によると木片または角石による裂傷にして刃物を以てしたる創傷にあらざること証明せられ、また被害者においても巡査抜剣の際これに触れ負傷したるものにあらずして何物か前方より飛び来たり命中したる旨申し立て居り、全く暴行青年の投石により負傷せること明白にこれあり候。
同村は所轄新宮警察署より13里余を隔たる山間の僻村にして18日午後7時に至り暴行事件の電報に接し新宮警察署より署 □□部出張また新宮区裁判所検事は当警察官に□するを以て慎重なる取調を要すべきなりと認め本月22日実地に出張取調の顛末以上の通りにこれあり候に付きこの段報告に及び候なり。
大正2年8月28日
和歌山県知事 川村竹治内務大臣 原敬殿
盆踊禁止に対し青年暴行の件(和歌山)「警保局長決議書類・大正2年(下)」