大辺路について思うこと

「熊野古道大辺路」意見交換会

第2回の「熊野古道大辺路」意見交換会に参加しました。

以下、大辺路について思うこと。

5月7日の第26回南方熊楠賞授賞式の記念パーティーで、受賞者の中沢新一先生と少しお話しました。

「熊野でとくにすごい聖地ってどこですか?」と他の方が中沢先生に質問されていて、それに対して中沢先生は「すさみ、古座の辺り」というようなお答えをされていました。

私も、すさみ、古座の辺りはすごいと思います。しかし残念ながら世界的にはすさみも古座もほとんど知られていないのが現状だと思います。

世界遺産というのは世界的に価値のあるものを守るということです。そしてその意義は世界平和への貢献です。ユネスコがやっていることですから。

熊野から世界の平和にどう貢献するか。

熊野から世界にどういう平和のメッセージを発することができるか。

熊野信仰というのは神仏習合。異なる宗教を共存させてきた歴史があります。

またその信仰の底の部分には自然崇拝があります。自然への敬意ということは地球環境のことを考えたらとても大切なことです。

熊野ならそれらのことを世界に向けてメッセージとして発することができます。

しかしながら熊野は明治時代に神仏分離と神社合祀によりひどく破壊されたため、現在の熊野三山と中辺路だけではそれらのメッセージを世界に向けて伝えるためには少し弱いと私は感じています。

中沢先生がすごいと言ったすさみ、古座の、今は世界的には知られていない聖地の力が必要だと私は考えています。

すさみ、古座に外国人に来てもらおうと思ったら、大辺路が田辺から那智まで、新宮まで通して歩けるということが必要です。

道がぶつぶつに途切れていたら外国人には歩けません。

大辺路を通して歩けるようにするということは、ただ熊野の未来のためになるということだけでなく、世界平和に貢献する、世界をよりよくするための取り組みでもあるのです。

熊野の未来にとって熊野古道「大辺路」の活用が重要な鍵

熊野古道大辺路意見交換

今年1月にfacebookに書いた文章ですが、メモ代わりにこちらにも。

先日(1月16日)、熊野古道「大辺路(おおへち)」についての意見交換会に参加させていただきました。
http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=308296

熊野地方の未来にとって、大辺路の活用が重要な鍵となります。

私は熊野を世界的な観光地・世界的な聖地にしたいと考えていますが、それは熊野三山だけが世界的な聖地になればいいということではなく、熊野全体を世界的な聖地にしたいということです。

熊野三山だけが熊野ではありません。

かつての熊野は浄土信仰で人々を惹き付けてきました。そこに行けば極楽往生が約束されると。

しかし今、浄土信仰だけで大勢の人々を惹き付けることができるとは思えません。

「蟻の熊野詣」を再び起こすには、熊野の側も変化していくことが必要です。

いま世界に求められていること。

それは自然との共生と、異なる宗教・異なる文化の共生ということではないかと思います。

熊野信仰の土台の部分には自然崇拝があり、また神道と仏教という異なる宗教を共存させることによって熊野信仰は盛んになりました。

明治政府の神仏分離や神社合祀の政策によりそれらは破壊されましたが、それでもそれらの痕跡は熊野の各地に残されています。

自然崇拝の痕跡、神仏習合の痕跡は、熊野三山よりもむしろ熊野各地にある無社殿神社や社寺でより強く感じることができます。

自然との共生と、異なる宗教・異なる文化の共生というメッセージを世界に伝えるには、熊野三山だけでは弱く、熊野各地にある今は世界的には名も知られていないような小さな聖地の力が必要だと私は考えます。

熊野各地にある小さな聖地を訪れてもらうためには、熊野古道「大辺路」を田辺から那智・新宮まで通して歩けるようにすることが、大きなきっかけ作りとなります。

いまブツブツに途切れた状態の熊野古道「大辺路」を、田辺から那智・新宮まで通して歩けるようにすること。外国からの方でも歩けるようにすること。

熊野地方の未来は、熊野古道「大辺路」を充分に活かすことができるかどうかによって、変わっていくように私は思います。

野長瀬忠男や南方熊楠らが守った野中の一方杉

継桜王子跡

野長瀬忠男や南方熊楠らが守った野中の一方杉。

野長瀬忠男は近野村近露(現・和歌山県田辺市中辺路町近露)の出身で、「トピー工業株式会社」の創業者の一人。トピー工業株式会社は鉄鋼メーカーで、現在、自動車用のホイールで高い国内シェアを誇っています。

野長瀬忠男の弟が日本画家として知られる野長瀬晩花(本名は弘男)。
『ウルトラQ』や『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の監督として知られる野長瀬三摩地は晩花の子であり、野長瀬忠男にとっては甥に当たります。

以下、明治44年10月15日付『牟婁新報』に掲載された野長瀬忠男の「神社合祀跡の神木濫伐禁止の急務(下)」より引用。

※ ※ ※

然るに我国民自らその神社を破壊し神木を乱伐し尽そうとするのは如何にも愚な行いではあるまいか私は切に望む、前に述べた近露や野中の旧神社のような由緒あり歴史ある古い神社跡及神木等はお宮様のある無しに拘らず、国宝として大切に保存して置きたい、

かの幾百歳であるか、年齢の推測も出来ぬような大樹、後で取返しの出来ぬその土地、その国の紀念物である所の老木古杉をたった千や二千の端金に代えて、伐倒してしまうのは村民としてまた帝国臣民として如何にも愚の極であると思う、かくの如き愚行を敢えてしては、我等の子孫や後世に対しても重々相済まぬ。当局の諸氏もこれに関係する町村の人民諸君も篤と御反省あらん事を切望する、

※  ※  ※

明治の末期、野長瀬忠男は近露や野中の神社(跡)が国宝級の価値がある場所であることを確信していました。

その確信の正しさは後に熊野古道が世界遺産になり、そしてまた去年10月に継桜王子跡が「南方曼陀羅の風景地」のひとつとして国の名勝に指定されたことで証明されました。

継桜王子跡