国が続けたハンセン病患者の強制隔離政策によって家族も差別を受けたとして家族らが国に損害賠償を求めた訴訟で、政府は先月7月12日、内閣総理大臣談話と政府声明を発表して、国の責任を認め、賠償を命じた熊本地裁判決を控訴をせず受け入れることを表明しました。
ハンセン病患者への強制隔離政策を違憲と断じた熊本地裁判決が2001年(平成13年)に確定し、元患者には補償がなされましたが、その救済がようやく家族にまで広げられることになりました。
ハンセン病の治療法が確立して1950年代から外来治療が世界の主流となっても、日本はなぜか強制隔離政策を続けました。日本がその政策をやめたのは1996年(平成8年)のことです。
ハンセン病患者や元患者、その家族は今なお差別偏見に苦しまれていますが、今後、国をあげての取り組みにより差別偏見がなくなることを願っています。
熊野信仰が盛んであった中世においても差別偏見はあり、ハンセン病は前世の悪業の報いでかかる病気だとされ、ハンセン病患者は最も穢れた存在とみなされていました。
しかし、ただ忌み嫌われて排除されたというのではなく、中世においては、最も穢れた存在であるがゆえにハンセン病患者に施しを与えることは神仏の御心にかない、御利益を得ることができる善行であると考えられました。
熊野の聖性を人々に伝える物語『小栗判官』の中で「餓鬼阿弥」として蘇生した小栗判官の姿はハンセン病患者をモデルとしたものであろうと思われます。ハンセン病は餓鬼病みと言われていました。
熊野はハンセン病患者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、熊野本宮の湯の峰温泉には、大勢のハンセン病者が治癒の奇跡を求めてやってきました。
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」
ハンセン病患者に救いの手を差し伸べることは、千人、万人の僧に供養してもらうのに等しいのだと。
小栗判官の物語にあるような一般の人々の手助けによって、体の不自由なハンセン病患者も熊野を詣でることができたのでしょう。
昭和の初めまで湯の峰温泉にはハンセン病患者が利用する入浴施設があり、ハンセン病患者ばかりを泊める宿屋もありました。
すべてのハンセン病患者が強制的に隔離されるようになったのは1931年(昭和6年)に癩予防法が施行されてからのこと。各県の衛生当局と警察がハンセン病患者をしらみつぶしに探しだして療養所という名の収容所に強制的に送りこみ、隔離しました。
国がハンセン病患者を強制的に隔離する政策をとったことで、ハンセン病患者やその家族への差別は一層ひどくなりました。
湯の峰温泉からはハンセン病患者が利用する入浴施設も消え、ハンセン病患者のための宿屋もなくなりました。
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