本日1月24日は大逆事件の関係者11人が処刑された日。明治44年(1911年)のことです。
熊野地方から大逆罪で逮捕されて死刑となったのは2人。新宮町(現・和歌山県新宮市新宮)の大石誠之助と、請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎。このうちの成石平四郎は南方熊楠の知人でした。
熊楠と成石平四郎が出会ったのは明治38年(1905年)7月28日。川島草堂という共通の友人の引き合わせでした。
川島氏、成石氏つれ来たり酒のみに行く。予は行かず。
『南方熊楠日記(3)』八坂書房
熊楠が39歳、成石平四郎が中央大学在籍中の22歳のときに2人は田辺で初めて出会いました。そしてその3年後の明治41年(1908年)11月に請川村の川湯温泉で2度目の出会いがあり、それから幾度かの書簡のやり取りが行われました。
判決が下された翌日、明治44年(1911)1月19日の熊楠の日記には次のように記されています。
昨日大逆事件言渡しあり。幸徳、管野以下二十四名死刑。(知人成石平四郎及びその兄勘三郎(予知らず)もあり、明治十三年と十五年生れなり。)他二人懲役。理由書二百枚ありし由鶴裁判長これを読めり。
『南方熊楠日記(4)』八坂書房
成石平四郎と兄の勘三郎ともに死刑の判決。平四郎が28歳、勘三郎が30歳。成石勘三郎は若くして村会議員を務めていた人物ですが、熊楠とは面識がありませんでした。
24名に死刑判決が下されましたが、翌日に特赦で半分の12名が無期懲役に減刑されました。その結果、成石平四郎は死刑、勘三郎は無期懲役となりました。死刑判決から6日後、1月24日の熊楠の日記。
本日午前九時より午後に渉り幸徳伝次郎以下十二名死刑執行、成石平四郎もあり。
『南方熊楠日記(4)』八坂書房
この大逆事件は当時でも国家によるフレームアップなのではないかと考えられ、アメリカやイギリスやフランスでは抗議運動が起こり、各国の日本大使館に抗議デモが押し寄せたために政府は判決、処刑を急がせたのでしょう。
翌25日の夜、川島草堂がやってきて、川島に宛てて出された成石平四郎最後のハガキを見せられ、熊楠はその文を紙片に写し取り、日記に貼り付けました。その後、30日の午後に熊楠のもとにも成石平四郎からのハガキが届きました。
午下成石平四郎死刑一月下旬の日付、一月二十八日牛込の消印ある葉書届く。
和歌山県田辺町 南方熊楠先生と表宛し、
先生これまで眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。ただこの上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもっています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になったので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせこんな男は百まで生たって小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におったて往生は畳の上ときまらん。そう思うと、御念入の往生もありがたいです。右はちょっとこの世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎四十四年一月下旬
『南方熊楠日記(4)』八坂書房
熊楠はどのような思いでこのハガキの文面を日記に書き写したのでしょうか。
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