SDGsとビジネスと南方熊楠

『SDGsが生み出す未来のビジネス』
水野雅弘/原裕 著『SDGsが生み出す未来のビジネス』

予約注文していた本が昨日届きました。

2018年6月14日開催の日比谷カレッジ「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」などでご一緒させていただいた水野雅弘さんのご著書『SDGsが生み出す未来のビジネス』。

2015年9月の国連総会で採択された『我々の世界を変革する: 持続可能な開発のための2030アジェンダ』。 その中で示された持続可能な社会を作るために2030年までに達成すべき具体的な17の目標がSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)。

『SDGsが生み出す未来のビジネス』
水野雅弘/原裕 著『SDGsが生み出す未来のビジネス』

この本は未来のビジネスについての本ですが、あとがきでは熊野が誇る偉人・南方熊楠について触れられています。

あらためて考えてみると、熊楠の理論が、SDGsの考え方と重なることに驚かされます。そしてこうした熊楠の活動は、いわばビジネスの力でSDGsを達成できる可能性を示唆するものに違いありません。何しろ熊楠の考えの根幹にあったのは、豊かな自然資源とそこから生まれる精神文化−−つまり互いを思いやる優しさの循環が、持続可能な社会経済を形づくるというものなのです。

水野雅弘/原裕 著『SDGsが生み出す未来のビジネス』インプレス、187頁

熊楠は決して終わった過去の人ではありません。むしろ熊楠は未来の人です。私たちはまだ熊楠に追いついていません。

SDGs達成に向けて人々が動いていくなかで、熊楠の先進性はこれからますます広く知られることとなるでしょう。

南方熊楠や神社合祀反対運動の盟友・毛利柴庵もスペインかぜに感染

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

およそ100年前の1918年から1920年にかけて世界各地で大流行したスペインかぜ(スペインインフルエンザ)。世界人口の4分の1が感染し、世界で推計4000万人が死亡。日本では3回の流行があり、38万人が死亡しました。

熊野でもスペインかぜは流行し、1回目の流行では南方熊楠や、熊楠の盟友で田辺の地方新聞『牟婁新報』社主の毛利柴庵も感染しました。

1918年12月7日付の『牟婁新報』には熊楠の発熱のことが触れられた文章がありますが、これは熊楠が感染したときのことなのでしょうか。『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻(不二出版)から引き写してご紹介します(旧漢字・旧かな遣いを当用漢字・現代かな遣いに変更、一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加)。

(十二月三日)午後二時南方大人(たいじん)来社、今日は発熱して、あるいは心臓麻痺の怖れがあるのだが、検事局から呼びに来たので行かねばならぬと話されたから、介抱人として吾輩も出頭した。例の告訴一件について川井検事の申し渡さるる所によると、

 雑賀名誉毀損の件は本人の告訴取下げにより不起訴の処分を為す。
 湊村寄留の件は罪とならざるにより不起訴の処分を為す。

ということで、結局南方大人の大勝利となったわけだ。これで目下編纂中の『南方随筆』が版されたら万歳万歳と言わねばならぬ。

毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

このとき「目下編纂中」であった『南方随筆』が出版されたのは、スペインかぜが終息して6年後の大正15年(1926年)5月。

毛利柴庵自身は11月にスペインかぜに感染していました。

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

■時
去んぬる十二日以来、悪性感冒に罹り、今なお褥中にあり、体温三十九度八分に達せし時、我は思いき。たとえ肺炎をもって斃るるとも、なるべく他に手数を懸けまじと。
一切の医薬を廃し、ただ虎薬のみ服し、ひたすら時の経過をのみ待てり。悪性感冒は今もってその病原すら知れず。従って適効薬すら無しというなるを、何として安んじて薬というものの嚥まるべきか。我は天地の間何者もあるなし。ただ時あるを知るのみ。
 時よく死を与え、時よく生を与ふ。

■死
体温、ある時は上がり、ある時は下がる。
四肢痛み、腰痛み、背痛み、頭痛む。
心地死ぬべう覚えし事も、五七回はありき。
死ぬのは構わんが、死ぬならば光彩陸離(こうさいりくり:まぶしいほど輝かしいさま)たる新聞を一枚だけこしらえてから死にたいと思う事もあった。
病中に半ペラ新聞を刷っているうちに、死にたくないとの痩せ我慢を起こす事もあった。寧?、新聞を廃刊して、気楽に養生させて欲しいとの希望が再三再四沸くのであった。
曾我部君が肺炎で死にかかっているとの便りを聞いた時はじつに驚いた。吾輩よりも先に失敬せられては大変だと思うたからである。
死、死、死、死は容易に来ずに、予の気分は少しずつ回復して来た。

■病
まだ死なぬなと思い出した時、病の身にあるを知った高垣忠次君の病みて死せるを聞いて驚いた。朝倉夫人、多屋夫人、その他多くの死を聞いて驚いた。大阪では一日三百人以上、田辺でも一日七八人の死は下らぬと聞いて驚いた。
医薬を少しも用いぬ予の如きをナゼ早く殺さぬのだと思う事も度々あった。社員も多く病み、家内も病み、予もまた病む。生も苦なり、死も苦なり、病むも苦なり、苦は一なり。死せずして病むもまた人生の苦しき義務なるにや。

■喧
苦熱悶々、我死地に入れるの時、眼何者をも見ず、耳何物をも聞かでありつるに。日を経るに従って、周囲の雑然たる物音の夥しきに驚かざるを得ざりき。
子供の泣き立つる音。
罵り騒ぐ音。
板の間を走り狂う音。
下手な奴がしきりに電話をかける音。
開き戸の風に煽られる音。
嗚呼、喧しの世や。
一時間だけなりとも、ドコか静かな天地へ行きたいナアと思いつ。(二十三日朝)

毛利柴庵「病間独語」 大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

毛利柴庵も死を覚悟し、知人も何人か亡くなり、田辺の町もスペインかぜで大変な状況だったことがわかります。

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』の広告欄。左端にあるのが毛利柴庵が「ただ虎薬のみ服し」という虎薬の広告。

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

毛利柴庵が発症する前の11月9日付『牟婁新報』の毛利柴庵による「牟婁日誌」には、著名な死亡者の名や、社員や家族が感染したことが書かれています。

七日…
◆感冒で死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎など一溜りもなく倒れた。如露亦如電(にょろやくにょでん:『金剛経』に出る語で、露や電光のように儚いという意味)の世だ。

八日…
◆流行性感冒追々と我が社に襲来し、小守、前田、中山、新谷の雄将女傑相次いで臥床。兵站部も、山の神頭痛を抑えて病中の子供相手の奮闘とて、本日印刷の新聞またまた半ペラと為さざるを得ない。深く読者諸君に御諒恕を願います。…

毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

「死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎」とある島村抱月は日本における新劇の普及に貢献した劇作家、演出家、文芸評論家。スペインかぜにより47歳で急逝。入江三郎は殺人犯。

南方熊楠の『ネイチャー』掲載論文に「Plague in China(中国のペスト)」

51本ある南方熊楠の『ネイチャー』掲載論文のなかに「Plague in China(中国のペスト)」と題されたものがあります。

「Encyclopaedia Britannica」(第9版、vol. xiv. p. 168)の中で、J. F. Payne博士は次のように書いている。

「近年、中国で東洋の疫病が発生したという報告があることは驚くべきことである。それは1871年以来、雲南省で観察されている…それは風土病のように見えるが、それはビルマから持ち込まれたという噂があり、その省での反乱の鎮圧[1872]の後、より顕著になった」

しかし、私が最近見つけた Hung Liang-Kih’s “Peh-Kiang-Shi-Hwa”(大英博物館写本、15,316, a, tom. iv. )は雲南省でのペストの発生がはるかに早いことを証明しています。1736年に生まれて1809年に亡くなった著者は、同時代の死者について次のように語っている。

「望江の総督であった師範の息子であった師道南は、詩の才能で有名であり、彼が亡くなった時はまだ36歳であった。その頃、趙州(雲南省)では、昼間に家々に変なネズミが出てきて、地面に伏せて血を吐いて死んだことがあった。疫病に感染して即死を免れた者は一人もいなかった。道南はその上で、彼の最高傑作である『鼠の死』と題した詩を詠み、数日後、彼自身もこの『変な鼠の流行病』で死んだ」

Kumagusu Minakata ”Plague in China”  Translated with www.DeepL.com/Translator (free version) 一部、私が修正