熊野新宮の中世の川湊遺跡

熊野川河口付近、旧丹鶴小学校の敷地内に文化複合施設を建設するということで発掘調査が行われました。熊野速玉大社と新宮城の間の熊野川沿いの土地です。新宮の歴史を知る人であればここを掘れば貴重な遺跡が出ることはわかっている場所でした。

発掘調査の結果、国の史跡指定間違いなしのレベルの貴重な遺跡が出てきました。

新宮城下町遺跡ととりあえず名付けられましたが、縄文時代から江戸時代のすべての時代にわたる遺跡が1箇所から出土する珍しい遺跡で、中でもとりわけ貴重なのは中世、平安末期から室町時代にかけての川湊の遺跡です。

新宮の川湊の遺跡は、新宮が日本有数の港湾宗教都市であった地域の誇るべき歴史の物的な証拠であり、中世の日本の港湾都市のあり方や海上交通を考える上でもとても重要なものです。

特筆すべきことは地下式倉庫は40基以上見つかったことです。こんなに倉庫が多い川湊の遺跡は他にありません。それも地下式倉庫。その倉庫にいったい何を貯蔵していたのかも実はわかりません。

直径1~2m、深さ1.5~2mの大型土坑が30基以上も見つかったのも、ここが特別な場所であることを物語っています。この大きな穴も実は何のためのものかわかりません。大型の構造物が建っていたのか。穴の底に鏡が置かれていたものもありました。

数棟見つかった掘立柱建物は当時としては大きなもので、川湊の管理に関わっていた可能性が高いものと考えられます。

遺物としては東海地方の焼き物や西日本の焼き物が数多く出土しました。また中国産の磁器も多くありました。東西日本の各地の焼き物が出土することから新宮が東西日本の物流の拠点として栄えた港湾都市であったことがわかります。

全国各地にあった本宮や新宮の荘園からの年貢も船でここに運ばれて陸上げされたことでしょう。

小学校の校舎の下の杭基礎を施工された箇所にも地下式倉庫の遺構が奇跡的に残されていました。
これはこの遺跡を後世に残せとの熊野の神様の意志かと私には思えますが、残念ながらこの敷地の遺跡の半分は破壊されて文化複合施設が建設されます。もう半分は地下に埋めたまま保存してその上を駐車場にするようです。

遺跡があまりにもすごいものだったので遺跡の全てが破壊されるという最悪の事態は避けられましたが、新宮の、熊野の未来のことを考えれば全面的に保存して活用すべきものだと思います。

日本有数の港湾宗教都市であった時代の新宮を垣間見ることのできる貴重な遺構、遺物。
地域にある古いものは古ければ古いほど大切にしなければなりません。時間、歴史の積み重ねというのは地方が生き残るための有効な武器になります。
せっかく21世紀まで残されてきたものを今になって破壊してしまうというのは本当にもったいないことです。

新宮市がこの貴重な遺跡の半分を壊してこれから建設する文化複合施設は維持管理費が年間1億円以上かかります。

新宮市の人口は2015年の国勢調査の数字だと29,331人。
社人研の人口予測では30年後の2045年までには43.5%減少し、およそ16,600人となると見込まれています。このときの平均年齢は、58.4歳。65歳以上の割合は49.5%、およそ2人に1人が高齢者になる見込みです。

貴重な遺跡を破壊して建てる文化施設が新宮市民にとって負の遺産になるのではないかと私は危惧しています。

室町時代の短剣とか縄文時代の土器とか、鎌倉時代のミニチュア三足羽釜とか室町時代の古瀬戸ローソク立てとか。

今日2月6日はお燈まつり

今日2月6日はお燈まつり
梅原猛さんと中上健次さんの対談集『君は弥生人か縄文人か』から。

梅原 …しかしすごい祭りだなあ。山の上であの火をみんながつけているとこ見ると、やっぱりこの世のものじゃない。この世の国じゃないですね、あれは。やっぱり霊の国だなあ。非常に原始的な祭りですね。火というものを人類が発明した、その喜びを伝える祭りですわ。ちょっと感動したね。こんな単純な祭りないわけよ。
中上 そうですね。
梅原 ほんとに。
中上 上って下りる (笑)。
(梅原猛、中上健次『君は弥生人か縄文人か』集英社文庫、43-44頁)

お燈まつりは、山上で火をおこして松明にともして下界に帰ってくるという、とてもシンプルな火祭りです。そのシンプルさは人類の祖先の火の獲得・火の発明を思わせます。

日本の火祭りの原初的形態はお燈まつりのような形であったのではないでしょうか。

‪今日1月24日は新宮市の名誉市民・大石誠之助が死刑にされた日

‪今日1月24日は、昨年和歌山県新宮市から名誉市民の称号を与えられた大石誠之助が死刑にされた日。大逆事件という政府によるでっち上げの事件で大石誠之助は逮捕され、明治44年(1911年)1月24日に死刑にされました。

この日に政府によるでっち上げの事件で死刑にされた熊野人は大石誠之助だけではありません。もう1人。成石平四郎。

死刑当日の南方熊楠の日記。

本日午前九時より午後に渉り幸徳伝次郎以下十二名死刑執行、成石平四郎もあり。
(『南方熊楠日記』4巻、八坂書房)

その6日後、1月30日の熊楠の日記。

午下成石平四郎死刑一月下旬の日付、一月二十八日牛込の消印ある葉書届く。
和歌山県田辺町 南方熊楠先生と表宛し、
先生これまで眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。ただこの上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもっています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になったので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせこんな男は百まで生たって小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におったて往生は畳の上ときまらん。そう思うと、御念入の往生もありがたいです。右はちょっとこの世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎四十四年一月下旬
(前同)

当時でも大逆事件は政府によるでっち上げなのではないかと考えられました。アメリカやイギリスやフランスでは抗議運動が起こり、各国の日本大使館に抗議デモが押し寄せました。そのため日本政府は判決を急ぎ、死刑執行を急ぎました。

前年6月に逮捕され、翌年1月19日に死刑判決が下され、それから6日後のスピード執行でした。

このようなことが2度とあってほしくない、と願います。