およそ100年前の1918年から1920年にかけて世界各地で大流行したスペインかぜ(スペインインフルエンザ)。世界人口の4分の1が感染し、世界で推計4000万人が死亡。日本では3回の流行があり、38万人が死亡しました。
熊野でもスペインかぜは流行し、1回目の流行では南方熊楠や、熊楠の盟友で田辺の地方新聞『牟婁新報』社主の毛利柴庵も感染しました。
1918年12月7日付の『牟婁新報』には熊楠の発熱のことが触れられた文章がありますが、これは熊楠が感染したときのことなのでしょうか。『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻(不二出版)から引き写してご紹介します(旧漢字・旧かな遣いを当用漢字・現代かな遣いに変更、一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加)。
(十二月三日)午後二時南方大人(たいじん)来社、今日は発熱して、あるいは心臓麻痺の怖れがあるのだが、検事局から呼びに来たので行かねばならぬと話されたから、介抱人として吾輩も出頭した。例の告訴一件について川井検事の申し渡さるる所によると、
雑賀名誉毀損の件は本人の告訴取下げにより不起訴の処分を為す。
湊村寄留の件は罪とならざるにより不起訴の処分を為す。
ということで、結局南方大人の大勝利となったわけだ。これで目下編纂中の『南方随筆』が版されたら万歳万歳と言わねばならぬ。
毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』
このとき「目下編纂中」であった『南方随筆』が出版されたのは、スペインかぜが終息して6年後の大正15年(1926年)5月。
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毛利柴庵自身は11月にスペインかぜに感染していました。
■時
去んぬる十二日以来、悪性感冒に罹り、今なお褥中にあり、体温三十九度八分に達せし時、我は思いき。たとえ肺炎をもって斃るるとも、なるべく他に手数を懸けまじと。
一切の医薬を廃し、ただ虎薬のみ服し、ひたすら時の経過をのみ待てり。悪性感冒は今もってその病原すら知れず。従って適効薬すら無しというなるを、何として安んじて薬というものの嚥まるべきか。我は天地の間何者もあるなし。ただ時あるを知るのみ。
時よく死を与え、時よく生を与ふ。
■死
体温、ある時は上がり、ある時は下がる。
四肢痛み、腰痛み、背痛み、頭痛む。
心地死ぬべう覚えし事も、五七回はありき。
死ぬのは構わんが、死ぬならば光彩陸離(こうさいりくり:まぶしいほど輝かしいさま)たる新聞を一枚だけこしらえてから死にたいと思う事もあった。
病中に半ペラ新聞を刷っているうちに、死にたくないとの痩せ我慢を起こす事もあった。寧?、新聞を廃刊して、気楽に養生させて欲しいとの希望が再三再四沸くのであった。
曾我部君が肺炎で死にかかっているとの便りを聞いた時はじつに驚いた。吾輩よりも先に失敬せられては大変だと思うたからである。
死、死、死、死は容易に来ずに、予の気分は少しずつ回復して来た。
■病
まだ死なぬなと思い出した時、病の身にあるを知った高垣忠次君の病みて死せるを聞いて驚いた。朝倉夫人、多屋夫人、その他多くの死を聞いて驚いた。大阪では一日三百人以上、田辺でも一日七八人の死は下らぬと聞いて驚いた。
医薬を少しも用いぬ予の如きをナゼ早く殺さぬのだと思う事も度々あった。社員も多く病み、家内も病み、予もまた病む。生も苦なり、死も苦なり、病むも苦なり、苦は一なり。死せずして病むもまた人生の苦しき義務なるにや。
■喧
苦熱悶々、我死地に入れるの時、眼何者をも見ず、耳何物をも聞かでありつるに。日を経るに従って、周囲の雑然たる物音の夥しきに驚かざるを得ざりき。
子供の泣き立つる音。
罵り騒ぐ音。
板の間を走り狂う音。
下手な奴がしきりに電話をかける音。
開き戸の風に煽られる音。
嗚呼、喧しの世や。
一時間だけなりとも、ドコか静かな天地へ行きたいナアと思いつ。(二十三日朝)
毛利柴庵「病間独語」 大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』
毛利柴庵も死を覚悟し、知人も何人か亡くなり、田辺の町もスペインかぜで大変な状況だったことがわかります。
大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』の広告欄。左端にあるのが毛利柴庵が「ただ虎薬のみ服し」という虎薬の広告。
毛利柴庵が発症する前の11月9日付『牟婁新報』の毛利柴庵による「牟婁日誌」には、著名な死亡者の名や、社員や家族が感染したことが書かれています。
七日…
◆感冒で死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎など一溜りもなく倒れた。如露亦如電(にょろやくにょでん:『金剛経』に出る語で、露や電光のように儚いという意味)の世だ。
八日…
◆流行性感冒追々と我が社に襲来し、小守、前田、中山、新谷の雄将女傑相次いで臥床。兵站部も、山の神頭痛を抑えて病中の子供相手の奮闘とて、本日印刷の新聞またまた半ペラと為さざるを得ない。深く読者諸君に御諒恕を願います。…
毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』
「死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎」とある島村抱月は日本における新劇の普及に貢献した劇作家、演出家、文芸評論家。スペインかぜにより47歳で急逝。入江三郎は殺人犯。
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