変形菌によって結ばれた南方熊楠、小畔四郎、昭和天皇

キャラメル箱
昭和天皇へのご進講の際に標本箱を入れて献上したキャラメル箱のレプリカ
南方熊楠顕彰館所蔵

明日6月1日は南方熊楠が昭和天皇にご進講(天皇や貴人の前で学問の講義をすること)を行なった日。

今から90年前の昭和4年(1929年)6月1日に熊楠は神島(かしま)で昭和天皇に拝謁し、その後、御召艦長門に移動して生物学のご進講をしました。

変形菌学者でもあった若き昭和天皇が日本における変形菌研究の先駆者である熊楠から講義を受けることを望まれて実現した二人の出会いでした。

このとき熊楠が数え年で63歳、昭和天皇が29歳。これが二人の最初で最後の出会いとなりました。

この田辺での熊楠のご進講の7日後の6月8日には神戸で、熊楠の変形菌研究の弟子である小畔四郎(こあぜ しろう)も昭和天皇にご進講を行いました。

熊楠と昭和天皇の出会いは1度きりでしたが、弟子の小畔四郎は時折皇居に参上して昭和天皇のお話し相手をつとめるほどの関係になりました。

熊楠が小畔四郎に出会ったのは明治35年(1902)1月15日、那智の滝のもとでのこと。熊楠が数えで36歳、小畔28歳。小畔は熊楠の変形菌研究の重要な協力者となり、資金面での支援も行う後援者ともなりました。

小畔四郎との出会いは熊楠にとってとても大きなものでしたが、小畔四郎にとってもとても大きなものでした。それまで変形菌のことなど知らなかった小畔が熊楠の指導を受けて熊楠の変形菌研究の第一の高弟となり、熊楠一門を代表して変形菌標本を昭和天皇に献上し、ご進講も行い、昭和天皇のお話し相手になるほどになりました。熊楠との出会いが小畔の人生を大きく変えたのです。 

熊楠との出会いは1度きりでしたが、昭和天皇は小畔四郎を通じて熊楠とのつながりを感じられていたのかもしれません。

熊楠はご進講から12年後、神島が国の天然記念物指定から5年後の昭和16年(1941)12月29日に数えで75歳(満74歳)で亡くなりました。日本軍の真珠湾攻撃(12月8日)から3週間後のことです。

戦後間もなく、大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三は昭和天皇から熊楠の逸話めいたものを聞かされた。1929年の田辺での進講の時の話で「南方には面白いことがあったよ。長門(注、御召艦)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」というものだった。

没後の顕彰 | 南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸)– Minakata Kumagusu Archives
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

南方熊楠記念館の敷地に建てられた歌碑に刻まれた昭和天皇の御製。

昭和37年(1962)5月、昭和天皇は南紀行幸した折に白浜の宿から神島を眺め、33年前に出会った熊楠を追憶し、その翌年の正月にこの歌を発表しました。

雨に煙る神島を見て紀伊の国が生んだ南方熊楠を思う。
昭和天皇が熊楠に敬意を覚えておられたことが伝わってくる歌です。

昭和5年(1930)に行幸1周年を記念して建立された神島の行幸記念碑に刻まれた熊楠の歌「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ」に対する時を隔てての返歌のように思えます。

行幸記念碑
一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ

(神島は国指定天然記念物。島内への立ち入りは禁止。上陸には田辺市教育委員会の許可が必要)

神島

熊楠が昭和天皇にお迎えした神様の島「神島」についての動画をYouTubeに公開しました。ぜひご覧ください。
https://youtu.be/bE0Jm57l1Kg

聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある由

上松蓊宛書簡、昭和四年五月十九日付『南方熊楠全集』九巻、平凡社

神島についての動画を公開、明日6月1日は南方熊楠が神島に昭和天皇にお迎えした日

神島(かしま)についての動画をYouTubeに公開しました。

明日6月1日は南方熊楠が神島に昭和天皇をお迎えした日。
今から90年前の昭和4年(1929年)6月1日に、熊楠は昭和天皇にお会いしました。

変形菌学者でもあった若き昭和天皇が日本における変形菌研究の先駆者である熊楠から講義を受けることを望まれ、実現した最初で最後の二人の出会いでした。

神島は和歌山県田辺市の、田辺湾に浮かぶ無人島。その名の通り、田辺湾を鎮護すると漁民たちから信仰された神様の島。南方熊楠の神社合祀反対運動のシンボル的な場所です。

明治の末期から大正の初めにかけて、明治政府は神社を統廃合して神社の数を減らそうという神社合祀政策を推し進めました。熊野地方を含む和歌山県と三重県ではわずか数年の間におよそ90%の神社が潰されました。そして神社の森が伐採されました。

神社がどんどん潰されて、どんどん森が伐られていく、そんな最中に神社を守ろう、神社の森を守ろうと立ち上がった人物の1人が南方熊楠でした。

南方熊楠は田辺に暮らしながら世界を舞台に活躍した在野の学者です。世界に東洋学の権威として知られ、現在世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』に掲載された論文の数は51篇。単著論文の『ネイチャー』掲載数としては世界最多、歴代最多だと言われます。日本の変形菌研究の先駆者でもあり、日本の民俗学や比較説話学の先駆者でもあった熊野が誇る偉人です。

近代西欧諸科学に東洋の学を拮抗させた若き熊楠の挑戦
『ネイチャー』誌掲載論文全訳、そのほとんどが本邦初訳。26歳の処女論文「東洋の星座」からオランダ人東洋学者との「ロスマ」大論争まで、63篇収録(59篇初訳)。

南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇 | 飯倉 照平, 松居 竜五, 田村 義也, 中西 須美 |本 | 通販 | Amazon

熊楠は、神島を生態学エコロジーの研究にとてもよい模範的な島だと訴えました。

熊楠は神社合祀反対運動の中で ecology という言葉を使いました。今から100年以上前のことです。

エコロジーとは元々は日本語で生態学と訳される生物学の一分野です。今はその生態学的な知識を反映させた文化的・社会的・経済的な活動のこともエコロジーといいますけれども、熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての意味しかありません。

エコロジーはまだ草創期にありました。エコロジー(生態学)にとって基本的な概念であるエコシステム(生態系)という言葉すらまだない時代でした。そのような時代に熊楠はエコロジーという言葉を使って神社の森を守るという自然保護運動を行いました。

熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての意味しかないのですけれども、熊楠が行った神社合祀反対運動は活動としてのエコロジーの先駈けであると言ってもよいかと思います。

また熊楠は、湾内に魚が入ってきて湾内で漁業が行えるのはこの神島の森があるからだ、神島の森は魚付き林で、地域に経済的な利益をもたらしてくれる大きな財産なのだとも訴えました。神島の森は、生態学の研究にとって大切なだけでなく、地域経済にとっても大切なものでした。

当時の漁民たちには、魚は緑が好きだから海岸や島に森に残したら魚がそばにやってくるんだ、というある種の信仰のようなものがありました。漁業を続けていくには海岸に森を置いておかなければならないんだという、海と森の生態系のつながりを漁民たちは直観的に理解していました。

森を保全することがお金を稼ぎ続けるためには必要なのだ、自然を保全することでお金を稼げるんだという考え方はいま、とても重要になっていると思います。

神島は神社としては潰されていましたが、熊楠や住民たちの訴えにより森だけは魚つき保安林として保護されることとなりました。

昭和天皇が熊楠から生物学の講義を受けることを希望されたときには、熊楠はこの神様の島に昭和天皇をお迎えしました。

神島にはその時の昭和天皇の行幸を記念して建てられた記念碑が今も立っています。その記念碑には熊楠が詠んだ歌が刻まれています。

「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ」

行幸記念碑
一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ

その後、神島は国の天然記念物に指定されました。現在は立ち入り禁止。上陸には田辺市教育委員会の許可が必要です。近年、国の名勝「南方曼陀羅の風景地 」にも指定されました。

田辺湾内で目ぼしい処は、何といっても神島だ。すでに神島と名づく。この島の神が湾内を鎮護すると信ぜられたるの久しきを知るべし。

「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』六巻、平凡社

このほか実に世界に珍奇希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecology を、熊野で見るべき非常の好模範島なるに、……終にこの千古斧を入れざりし樹林が絶滅して、十年、二十年後に全く禿山とならんこと、かなしむにあまりあり。

柳田國男宛書簡、明治四十四年八月七日付『南方熊楠全集』八巻、平凡社

たとえば今度御心配をかけし当田辺湾神島のごときも、千古斧を入れざるの神林にて、湾内へ魚入り来るは主としてこの森存するにある。これすでに大なる財産に候わずや。

松村任三宛書簡、明治四十四年八月二十九日付『南方熊楠全集』七巻、平凡社

和歌山県立田辺高校のスーパーグローバルハイスクールアソシエート校、ユネスコスクールの取り組み

先日出席した紀南ユネスコ協会の総会で、総会前に、和歌山県立田辺高校の和田充可先生のご講演がありました。

和田先生が田辺高校で行ってきたスーパーグローバルハイスクール(アソシエート校)、ユネスコスクールの取り組みについてのお話。

「日本・世界で活躍する人は郷土に誇りを持っている。郷土愛が心の芯になるのだ」というお話には感銘を受けました。

地域活性化のためには何よりも郷土教育が大切です。人口減少をどこかの段階で止めることや、地域内消費額を増やすことを実現するには、何よりも地域住民の地域への誇りと愛着が必要です。

和田先生のお話を聴いて、地域への誇りと愛着を育む教育をしている高校が田辺市にあることを知り、とても嬉しくなりました。

南方熊楠は今から百年ほど前に田辺に暮らし、熊野という地域に誇りと愛着を持ち、世界を舞台に活躍しました。

今後、田辺高校の卒業生から、地元に暮らしながら世界的な活躍をする人たちが多く登場することを期待しております。