スペインかぜ1回目の流行期の熊野各地の状況

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の熊野各地の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

瀬戸村(現・白浜町)

各地の感冒

瀬戸

目下弊村も悪性感冒流行各戸1、2名ずつはたいてい臥床、すでに?名死亡、数名の重症患者これありやにて医師もいちいち往診し切れざる状態なり。(24日発)

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

三川村合川(現・田辺市合川)

各地の感冒

▲三川
本村合川は3?戸の字中一時60余名の患者ありしも幸いに1名の死亡者もこれなく、村役場も村町はじめ一?冒されしも早速全快、警官も第1着に罹病せしもめでたく快癒。字佐田は幸いに1名の患者をも出さず、学校も他字罹病のため目下休校の由。まず予防の第1策は流行地へ出入りせざる事、毎朝食塩水を啜る事、早起き励行の事等必要と存じ候。(22日発)

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

那智村(現・那智勝浦町)

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

那智の感冒

東郡那智村にては4,200の人口中7割まで悪性感冒に冒され、長雄医院看護婦洞口タミヨ同病にて死亡し、院主長雄亮太郎氏も伝染??重態のよし。大字天満に宮本医師あるのみにて全村に往診し切れず、売薬も品切れにて村民は田畑にて蚯蚓を掘り出しこれを煎じて飲むという始末にてその悲惨目も当てられずという。
勝浦巡査派出所の急報にて新宮町より寺本医師応援出張したりとの事なるが、新宮町とてもこの程来24,000の人口中約17,000〜18,000の患者あり。中には夫妻枕を並べて死亡し死者をそのままのして4日間も埋葬するを得ざるもありしという。
ただし目下の状態にては海岸線はようやく下火となり、もっぱら山間部を荒らしつつあるが如し。交通不便と医師無きため一層の困難ならんと察せらる。

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

江住村(現・すさみ町江住)

牟婁日誌

28日(晴)
江住村城国手(こくしゅ:医師)の近信にいわく「当村も2、3日前より悪性感冒侵入、なかなか猛烈の模様に候」とある。例のきんきり馬で、東西御奔走の事と御察し申す。(後略)

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

東富田村(現・白浜町)

東富田の感冒

悪性感冒今や山間部を襲撃して本郡にても栗栖川辺大流行の由なるがなお富田川筋では東富田最も猛烈にして中にも血深字が激しく毎日同字にて2、3人、全村にも5、6人の死者を出しつつありとは悲惨と言うべし。

大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』

周参見村(現・すさみ町周参見)

周参見の祈祷

周参見村もご多聞に漏れず悪性感冒にて至る所苦しめられつつあり。吾が平松区や小泊りにても数十名の患者あり。何様今もって病原も知れざる程の事にて医師の薬も存外当てにならず、そのお医者様さえ新聞で見るとバタバタ斃れる様子ゆえ、この上は神仏の加護を乞うの外なしとの趣意か太間地の観音寺福田恵明師は率先して??念仏を唱えつつ風雨を厭わず村内を廻り、その結願には同寺において護摩供を修し護摩札を各戸に施与しつつあるが、そのお陰にや平松小泊りは重患者出でず幸い1名の死者もなしという。
また同地観音講より謝礼として封金を贈りしも福田師はこれを受けず、よって仏前に水引一掛を奉納したりという。病気に際し医薬を服せず祈祷にのみ依るは感心し難きも、今回の如く適効薬なき場合は如何ともしがたし。医学博士達の感想如何承りたきものなり。(同地通信)

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

三里村(現・田辺市本宮町)

三里村の感冒

東郡三里村方面も近頃悪性感冒襲来し、別項の如く中村医師もこれがため逝去せしが何分の交通不便の地とて医師を迎うるも容易ならず、売薬も品切れとなり、蚯蚓や牛の角?などを服用しつつただ拱手(きょうしゅ:手をこまねいて何もしないでいること)死を待つの状態にて全村悲惨の状態紙筆の外なり。これ畢竟道路完全ならざる結果なり。吾輩は今更ながら県政の不公平を悲しまざるを得ずと某氏の近信に見えたり

大正7年(1918年)12月5日付『牟婁新報』

朝来村(現・上富田町朝来)

朝来方面の感冒

本郡朝来村から富田方面一帯は今なお悪性感冒にて、どの家でも1度や2度襲撃を受けぬはないとの事なり。どうか虎薬でものんで、ジーッと温もって、その上治り口に油断せぬよう御注意申します。

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

中芳養村(現・田辺市中芳養)

中芳養の感冒

田辺が下火になった頃から当村は誰も寝た私も寝たで、中には一家総倒れや2人も3人も引導を渡された悲惨な家もあった。御存知の世話好きで元気者の久保八十松兄弟は1日にバタバタ不帰の客となった。我が村で今日まで感冒の見舞い受けなかったのは片井家とその他2、3軒しかない。かような調子だから葬式と言うてもホンの仮葬送で後で葬式の仕直しという有様であったが、幸い今日では下り坂となった。一時はどうなる事かと大いに心配いたしました。(同地通信)

大正7年(1918年)12月11日付『牟婁新報』

12月に入ってからの各地の状況

その後の感冒 いまだ盛んな所もある

田辺町
目下患者300名。最も激烈なりし江川町は大いに減退、今日では終息の状態なり。そのうち学校生徒の罹病者、田辺小学校49名、実業6名、中学28名。

湊村
目下200人。欠席児童70。

西の谷
患者数十名、学校児14、5名。

▲稲成
大字荒光最も猖獗を極め、各戸に罹病者あり。

栗栖川
漸次蔓延の兆しあり。第三小学校は6日より休校。有本同校長は感染重患の由。

▲近野
70〜80の患者あり。

▲上芳養
患者50、死亡者男女各1人。

▲中芳養
前同様50、今日まで死亡者18名。

鉛山
各戸に2、3名の患者あり。医者も罹病。病人はみなみな大困艱。

生馬
各戸に病者あれども発病4、5日で平癒す。

▲南富田
大流行。学校は4日から休校。

▲?呂
学校6日より休み。

朝来
200名の患者あり。

大正7年(1918年)12月13日付『牟婁新報』

秋津川(現・田辺市秋津川)

秋津川の感冒 近衛新兵も死んだ

本月初め頃より本村内の流行感冒猛烈にして毎日1人2人の死者あり。この小村にてすでにこの病のために18人の死亡者を出せり。惨憺じつに言語の外なり。ことに惜しむべきは本村の新兵にして今回東京は近衛隊に入隊せし名誉の軍人谷口宗平氏が突如として死去の悲報あり。家族は泣く泣く上京、たぶん今日(16日)あたり荼毘に付したるはず。気の毒の至り。詳細はわからぬが、たぶん悪性感冒に斃れたるものなるべし。(山下村長談)

大正7年(1918年)12月17日付『牟婁新報』

かなり悲惨な状況であったことがわかります。やはり医療従事者の死亡もありました。

スペインかぜ大流行の折柄、南方熊楠、珍菌を採取

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期に南方熊楠は珍しいキノコを採取しました。

熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します(不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めています)。

南方氏珍菌発見

先日当町上屋敷町山本吉太郎氏邸付近を、南方先生通行の際採取したる珍菌は学名リノトリヒヤ・ラコロランスと呼び、45年前英国菌学大家クック博士の発見したると同種の珍菌にして、クック氏以来いまだ何処にても探収せしを聞かざる逸品なりと。先生いわく、感冒大流行の折柄こんなものを取ったので研究に8時間もかかり往生したよ。

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

(追記)
珍菌「リノトリヒヤ・ラコロランス」については検索してもまったく出てこないのですが、どうやら Rhinotrichum decolorans Cooke のようです。この記事を読んでくださった方からメールがあり、ご教示いただきました。ありがとうございます!

同日付の紙面の『牟婁新報』社主の毛利柴庵による「牟婁日誌」にはスペインかぜに罹患した毛利柴庵がまだ完治していないことが書かれています。

27日(晴)
24日の朝からまたまた法螺貝を吹いているが、まだ充分熱が冷めぬ貸して今朝も気分が悪い。暁天の月光を浴びつつ深呼吸を致したところが、横腹が痛い。
9時過ぎまた臥床に入る。川島草堂君来たる。いわく、先日ここへ来てから伝染したと見え3日ばかり弱ったが無闇に酒を飲んでやったら治ってしまった。(中略)
南方大人来たる。いわく、まだ寝ているのか困ったなあ、吾輩も、妻が病気、下女は無し、今年8つになる子供が火をたいているが危なくてなあ。
午後2時過ぎ井川君来たる。「入ったら伝染するかも知れぬが今日は徴兵送りでのう」と。道理で先刻来、賑やかな楽隊がしばしば通った。さすがに壮丁諸君感冒患者も無いと見える。

大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』

この後、熊楠は12月3日には発熱の症状が出ているので、毛利柴庵から感染したのか、それとも「妻が病気」とあるので妻からでしょうか。

スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県田辺町の様子

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県田辺町(現在の田辺市の中心部)の様子を地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します(不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めています)。

その日その日

今度の病菌は甲より乙丙丁と感染する毎に毒力が強くなるとの事だ。そのため?後の患者ほど病勢が激しいようだ。まだ無難な人は充分注意なさい。また一度罹かった者だとて免疫期間はわずか2ヶ月位と云うからこれも油断は大敵だ。この間某家へある親類から見舞状が来たのに対し返事に一家全滅(ことごとく罹かった)と洒落たので親類大いに驚き早速香典を送ってきた??こんな滑稽はたくさんあろう。

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

手揃った郵便局 これから故障も少なかろう

当郵便局事務員大部分悪性感冒に罹かり、ために電話に電報に故障だからけなりしが罹病者もようやく回復出勤執務せしにより事務は今や旧に復したり。しかし集配人にいまだ全治せざる者あるをもってこの方面は思うように行かぬらしい。

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

湯銭の値上げ 昨夜から開業

悪性感冒流行のため当町会津川以東の湯屋はこの程来止むなくいずれも休業中なりしが、感冒も追々下火となりたるをもって昨夜あたりよりぽつぽつ開業したり。なお燃料(薪)暴騰のため湯屋組合よりその筋へ申請中の

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

新地から

感冒で寝込んでいる芸妓はまだ17,8名ありますが、たいてい晩は箱切れです。

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』