中村天平さんの紀伊半島秘境ツアー2016の初日にお話させていただいたこと

伏拝からの眺め

ニューヨーク在住の作曲家&ピアニスト 中村 天平さんの 紀伊半島秘境ツアー2016の初日6月30日の三里小学校体育館でのコンサートで、地域に伝わるお話をもとに即興演奏をしたいので誰かお話を教えてくださいということになって、私が引っ張り出されてお話ししました。

まったく話をする準備なんてしていなかったので、うまく話せませんでしたが、次のようなことをお話させていただきました。

伏拝の和泉式部のお話でいいですかね。
この上、川向かいの上に伏拝という所があります。伏して拝む。熊野本宮大社の旧社地がそこから見えて、伏して拝むことができます。

和泉式部という平安時代の女流歌人が熊野詣をして、伏拝まで来たときに生理になりました。当時、流血や出血は不浄なものとされたので、神社への参詣はできません。和泉式部は参詣をあきらめて伏拝に止まりました。その夜の夢に熊野の神様が現われて、かまわないから来い、と。それで和泉式部はそのまま参詣することができたという。そういうお話が伝わります。

これは何気ないお話のように思えますが、じつはすごいんです。

平安時代、国家的に、法律的に不浄なものが規定されていました。血、流血、出血。死、生き死にの死。それから出産。子どもを産むこと。血と死と出産、これらの不浄なことがあったら7日間謹慎しなさいとか30日間謹慎しなさいとか、法律的に決められていた。

だけれども熊野ではそんな法律関係ない。かまわないから来い、と。

伏拝の和泉式部のお話は、熊野は中央とは異なる価値観を持っているのだということを堂々と示しています。

このようなお話をしました。

中央とは異なる価値観を持っていることに熊野の価値があったのだと思います。

伏拝王子、和泉式部

写真は伏拝王子からの眺め。

久しぶりにホコジマさんにお参り

ホコジマさん二の鳥居

久しぶりにホコジマさんにお参りしました。

川湯温泉の背後にある飯盛山の山頂近くにかつて大きな岩がそそりたっていました。高さ10m、周囲15mもの大岩。

その岩をホコジマさんと呼んでこの地方の有力な2家がお祀りしていました。

南方熊楠はホコジマさんについて以下のように記しています。

……那智から雲取を越えて請川に出て川湯という地に到ると、ホコの窟という底の知れない深穴がある。ホコ島という大岩がこれを覆う。ここで那智のことを話せば、たちまち天気が荒れるという。

亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口にひとつ供えて、周囲を3度歩むうちに必ず失せてしまう。石を落とすと限りなく音がして転がって行く。この穴は、下湯川とどこかの2つの遠い地へ通じている。昔の抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人が天狗を切ったと伝える地を、予も通ったことがある。いろいろと伝説もあったろうが、先年死んだから尋ねようがない。
南方熊楠「ひだる神」〔口語訳てつ〕

ホコジマさん

ホコジマさんは終戦前後の2度の大地震で谷に滑り落ちて砕けてしまって、今では大岩はありませんが、大岩の跡地には祠が建てられていて今でもお祀りされています。

 

宗教人類学者の植島啓司さんがランキング付けした日本の聖地ベスト100ではホコジマさんは第24位に選ばれました。

川湯と渡瀬を結ぶ峠越えの道、おそらくは南方熊楠も歩いた道

昔の街道

先日歩いた本宮町の川湯と渡瀬を結ぶ峠越えの道。

おそらくは南方熊楠も歩いた道。

明治37年(1904年)10月8日の熊楠の日記から(私による口語訳)。

予等二人は川湯峠を越え、檜葉より皆地にかかる。……川湯峠でミズモランを得る。

(『南方熊楠日記2』八坂書房、473〜474頁)

ミズモランはジンバイソウの別名。多年生地生ラン。

檜葉(ひば)も皆地(みなち)も地名。

昔の街道