復曲能「鈴木三郎重家」が東京・新宿区神楽坂で再演!

11月24日(日)に東京・新宿区神楽坂の矢来能楽堂にて開催される第21回一乃会公演のチケットが本日9月17日から販売開始されました!

第21回一乃会
2019年11月24日(日)15時
矢来能楽堂
解説:小林健二
仕舞『屋島』 観世喜之
仕舞『橋弁慶』 観世喜正・観世和歌
狂言『成上り』 野村萬斎
復曲能『鈴木三郎重家』 鈴木啓吾

第21回一乃会公演では復曲能「鈴木三郎重家」が再演されます!
復曲能「鈴木三郎重家」は廃曲となっていた能「鈴木」を観世流能楽師の鈴木啓吾さんが昨年3月におよそ300年ぶりに復曲上演したものです。

能「鈴木」は「語鈴木(かたりすずき)」「重家」などとも呼ばれ、室町時代後期には成立していましたが、江戸時代中期には上演されなくなったようで、長らく廃曲となっていました。

主人公である鈴木三郎重家は熊野詣の道中における要所・藤白王子(現・藤白神社、和歌山県海南市)の神職を代々世襲する鈴木家の当主。鈴木三郎重家は源義経に従い、源平合戦に活躍し、奥州平泉の衣川館で義経と最期を共にしました。

義経の従者というと弁慶が有名ですが、鈴木三郎重家もまた熊野にゆかりのある人物です。鈴木氏は熊野の神職の家系で、12世紀頃に熊野から藤白に移り住み、藤白の鈴木氏は全国に散らばる鈴木氏の本家筋とみなされました。

能の内容と関係はありませんが、鈴木三郎重家が義経に従って敗れたことが、のちの鈴木九郎の新宿開拓に繋がります。

復曲能「鈴木三郎重家」のあらすじは以下の通り。

源頼朝(ワキ)による源義経追討が厳しくなる中、義経一行は、奥州の藤原秀衡を頼り、平泉を目指す。
故郷の母(ツレ)が病に臥せっていたため、紀州藤白に戻っていた義経家臣の鈴木三郎重家(シテ)は、義経を追い奥州へと出立する道中、梶原方に捕らえられてしまう。頼朝の前に引き出された重家は…。

(第21回一乃会公演チラシより)
復曲能「鈴木三郎重家」

鈴木という名字は現在日本で2番目に多い名字ですが、その始まりは熊野にあります。熊野本宮または新宮の神職に関わる家柄にあった人物が鈴木を名乗ってから始まった名字で、スズキは熊野地方の方言だと考えられます。刈取った稲束を積上げたものを熊野ではスズキと言いました。鈴木の漢字はその当て字です。

もともと熊野地方の方言であった言葉が現在日本で2番目に多い名字になっているという現実は、かつての熊野信仰の影響力の大きさを今に示してくれています。

復曲能「鈴木三郎重家」

チケットはこちらから。
https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=53673&

「鈴木」の復曲は藤白鈴木家が代々住んでいたとされる「鈴木屋敷」の復元事業を鈴木啓吾さんが応援するために行ったものです。鈴木屋敷復元会への寄付を含む限定15席の特別席のチケットは一乃会でのみ取り扱っています。

闘鶏神社境内にて9/28に薪能開催

闘鶏神社創建1600年を記念して9月28日(土)に闘鶏神社境内にて薪能が開催されます。
上演される能の演目は「安宅」「船弁慶」「土蜘蛛」。いずれも闘鶏神社で演じるのにふさわしい演目です。

●「安宅」は弁慶がシテ(主役)。弁慶熊野別当の子とされ、田辺が生誕の地だと伝えられます。

源頼朝と不仲となった義経は、弁慶などの家臣とともに山伏の姿となり、奥州平泉を目指す。安宅の関で弁慶が勧進帳を読み上げ、義経を杖で打ち、難を逃れる。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku170.html

●「船弁慶」は弁慶がワキ(脇役)。

船で西国に下る義経弁慶主従の前に平知盛の霊が現れて義経を海に沈めようとする。弁慶が平知盛の霊を祈り伏せる。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku238.html

●「土蜘蛛」に登場する名刀・膝丸(ひざまる)は「剣の巻」では後に熊野権現に奉納され、熊野別当湛増から源義経に贈られたと語られます。

病気で臥せる源頼光(みなもとのらいこう)のもとへ見知らぬ法師が現れた。その法師の正体は蜘蛛の化け物で、頼光を襲った。頼光は源氏に代々伝わる名刀、膝丸(ひざまる)を手に取り、斬りつけた。
http://www.mikumano.info/yokyoku/yokyoku234.html

世界遺産 闘鶏神社創建千六百年 田辺薪能 2019.9.28
世界遺産 闘鶏神社創建千六百年 田辺薪能 2019.9.28

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生が「名取ノ老女」について

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生がインタビュー記事のなかで「名取ノ老女」について触れています。
http://www.ntj.jac.go.jp/nou/27/natorinoroujo/topics07_02.html

僕はこの「名取ノ老女」は、遊女じゃないかと思うんです。あの人は熊野詣でにしょっちゅう行ってるでしょう。どうやって行ったかというと、船以外には考えられない。東北から熊野まで相当な距離ですが、室町時代の軽さで結構自由に移動するようになる。名取に住まいしていた老女も、船に乗って熊野へ行く。海の世界、海民が、熊野と東北までも繋ぎます。「名取ノ老女」は毎年熊野に行って、途中の港にいる顧客相手に商売し、ポケットマネーを持って熊野に行く。そういう熊野詣でをしていた遊女はたくさんいて、音阿弥もきっと、そういう背景でこの曲を書いていると思うのです。このおばあさん、すごく自由な人だったと思います。財産家でお金を持っている、道中では仕事もこなす。だから旅行なんかは平気です。

「名取ノ老女」は、明治以降廃曲となり、先日、東京・国立能楽堂で復活上演された能。

名取熊野三山が舞台として登場する能です。

熊野でもぜひ上演していただけたらな〜。