熊野本宮大社旧社地の「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の前で執り行なわれる一遍上人月例祭に参列した今日

一遍上人月例祭

昨日、ベルギーでテロが起こりました。テロが世界中に拡散している現実には暗澹とさせられます。

圧倒的な不平等が弱者によるテロを生んでいるのでしょうから、テロをなくすには強者が変わるしかないと思うのですが、強者はテロが起ころうとも今のままがよいと考えているのでしょう。

私は熊野を世界的な観光地、世界的な聖地にしたいと願っていますが、観光は平和でなければ成り立たないものです。

観光は、国際平和と国民生活の安定を象徴するものであって、その持続的な発展は、恒久の平和と国際社会の相互理解の増進を念願し、健康で文化的な生活を享受しようとする我らの理想とするところである。また、観光は、地域経済の活性化、雇用の機会の増大等国民経済のあらゆる領域にわたりその発展に寄与するとともに、健康の増進、潤いのある豊かな生活環境の創造等を通じて国民生活の安定向上に貢献するものであることに加え、国際相互理解を増進するものである。
観光立国推進基本法の前文より)

観光は平和あってのものであり、また観光は宗教や文化が違う人たちの間の相互理解を促すきっかけとなります。

平和であることと、国内が安定していることは、観光産業にとって最も重要な事柄だと思います。

熊野本宮大社の旧社地の「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の前で執り行なわれる一遍上人月例祭に参列した今日、あらためて自分が目指しているものは究極的には世界平和なのだなと思いました。

異なる宗教や文化を持つ人たちが異なったままに共に暮らしていける世界。

自分が生きている間には実現できなさそうですが、それでも。

熊野は神仏習合で栄えてきた聖地です。

明日23日は熊野本宮大社旧社地にて一遍上人月例祭

熊野本宮大社鳥居

明日23日は熊野本宮大社旧社地にて午前9時から一遍上人月例祭が執り行なわれます。

熊野本宮大社は、一遍上人の月命日の23日に毎月、一遍上人月例祭を執り行っています。

神社がお坊さんを偲ぶ祭事を行っているのは、一遍上人というお坊さんが熊野本宮大社にとってとても大切な人物だから。

一遍上人は、鎌倉時代末期に起こった浄土教系の新仏教、時衆(後に時宗)の開祖。

一遍上人は本宮に籠って、夢の中で熊野権現から「信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず」という教えを授かり、ある種の宗教的な覚醒に到りました。一遍上人自身が「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べていて、私の教えは熊野の神様が夢のなかで伝えてくれた教えである、と語っています。

時衆は全国的に大流行し、時衆の念仏聖たちは熊野の聖なるイメージを広く庶民に伝えてくれました。

3月23日午後4時からはの「高倉下社・音無天神社 二十三夜講」には参列したことはありませんので、どのようなものかわかりませんが、高倉下(たかくらじ)は、神武東征の折りに熊野におり、神武天皇に霊剣布都御魂を献上した人物。
音無天神社は熊野本宮が舞台の「巻絹」という能にも登場する本宮の末社。

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書『ゲーテの耳』

ゲーテの耳

第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書から、熊楠や熊野について語られている文章を改めて確認しています。

1992年発行の『ゲーテの耳』には「テレビをみるミナカタクマグス」と「救済する空間」。

「救済する空間」では、中世における熊野の信仰を取り上げています。

無でも有でもない、不思議なトポスに立って、熊野の神は一遍聖に念仏の本質を説く。そこは「機前」の空間として土着の神々の浄化力みなぎるところであり、「自然智」であり「本覚」でもある意識のスポンティニアスな運動がおこなわれているところでもある。そこは信心とか不信心とかをこえた、絶対的な安心の実現されるトポスだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、234-235頁)

一遍上人の熊野成道がこのように語られ、熊野については以下のように語られます。

熊野はケガレとなってあらわれてくる、そうした「過剰した自然」を自分のなかに受け入れ、浄化の力をほどこして、もとのバランスのとれた状態にもどす力をもっている、と考えられたのだ。……そんなことができるのは、自然が生成されてくるプロセスのさらに根源にひそんでいる、あの「機前」の空間のはらむラジカルな浄化力だけなのだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、235-236頁)

文庫化されています。

ゲーテの耳 (河出文庫―文芸コレクション)
ゲーテの耳 (河出文庫―文芸コレクション)

中沢新一先生のようには書けませんが、私も一遍上人の熊野成道については文章を書いていますので、お時間のあるときにでもお読みいただけたら嬉しいです。
一遍上人、熊野成道