神社のご祭神は時代により変わったり、付け加えられたりするものですが、熊野本宮大社の主祭神・家津御子大神(ケツミコノオオカミ)がスサノオノミコトとされたのはいつからなのでしょうか。
江戸時代中期には家津御子大神は国常立尊(クニノトコタチノミコト)だとされていますので、本宮の主祭神がスサノオとされたのはたぶん江戸時代後期だろうとなんとなく思っていますが、実際のところわかりません。
国常立尊は『日本書紀』においては天地開闢とともに出現しました。イザナミやイザナギよりも前に出現した、最初の、根源的な神さまです。
平安時代末から鎌倉時代に成立したと見られる熊野修験の根本経典ともいうべき『大峰縁起』では、家都御子大神の前世はインドの国王である慈悲大顕王(じひだいけんおう)で、熊野速玉大神はその王子、熊野夫須美大神は王女であるとされます。ここでは速玉大神と夫須美大神は家都御子大神の子どもです。
また熊野の神さまの前世を語る室町時代の物語『熊野の本地』では家都御子大神は喜見上人という僧で、熊野速玉大神は古代インドの摩訶陀国の善財王(ぜんざいおう)であり、熊野夫須美大神はその妃、若一王子が王子とされます。熊野速玉大神と熊野夫須美大神は夫婦で、家都御子大神は2人の師のような立場にあります。
家都御子大神に記紀神話に登場する神さまを当てはめるとき、イザナギやイザナミよりも先に生まれた最初の神さま・国常立尊こそが家都御子大神には相応しいと考えられたのではないかと思われます。
熊野本宮大社蔵「惣建図 」は明治14年(1881年)に作成された熊野本宮大社の図。
この図の境内の右上隅のほうをクローズアップすると、2つの建物があり、その右手の建物には「須戔嗚社」と名前が付されています。
主祭神がスサノオであればスサノオをお祀りする神社を境内に別に設けてお祀りする必要はないように思いますが、もしかしたら江戸時代末期や明治初期にもまだスサノオが主祭神にはなっていなかったのかもしれません。
家津御子大神はスサノオの別名であるとの説は江戸時代末期成立の紀伊国の地誌『紀伊続風土記』に記されていますが。
よくわかりません。