スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県那智勝浦町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。
不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。
那智村(現・那智勝浦町)の状況
那智の感冒
東郡那智村にては4,200の人口中7割まで悪性感冒に冒され、長雄医院看護婦洞口タミヨ同病にて死亡し、院主長雄亮太郎氏も伝染??重態のよし。大字天満に宮本医師あるのみにて全村に往診し切れず、売薬も品切れにて村民は田畑にて蚯蚓を掘り出しこれを煎じて飲むという始末にてその悲惨目も当てられずという。
勝浦巡査派出所の急報にて新宮町より寺本医師応援出張したりとの事なるが、新宮町とてもこの程来24,000の人口中約17,000〜18,000の患者あり。中には夫妻枕を並べて死亡し死者をそのままのして4日間も埋葬するを得ざるもありしという。
ただし目下の状態にては海岸線はようやく下火となり、もっぱら山間部を荒らしつつあるが如し。交通不便と医師無きため一層の困難ならんと察せらる。
大正7年(1918年)11月29日付『牟婁新報』
那智荘(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町):紀伊続風土記(現代語訳)
那智荘全12ヶ村、東は佐野荘及び浅里郷に接し、西は色川郷と隣り合い、南は大田荘と界し、北は那智山と接する。
天満村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満):紀伊続風土記(現代語訳)
駿田峠を村堺とする。この山峰は岩石硝立して屏風を立てたよう。村の北東は浜ノ宮・川関の2村と川を堺とし、南東の方は勝浦村に至るまでの地、みな当村の領で平田が多い。村居は一筋の町をなし商戸もあって田舎の形ではない。天満の名は産土神より起こった。
勝浦村(現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町勝浦):紀伊続風土記(現代語訳)
天満村の東南14町にある。勝浦村・天満村・浜ノ宮村の3ヶ村はみな海に瀕して東に向かったひとつの海湾である。この海湾を吹浦という。勝浦村はその南の端の出崎にあって、また南にひとつの小さな海湾があって入津湊という。この地は海の中に突き出ていて南北両面に海を受けている。