スペインかぜ1回目の流行期の和歌山県白浜町の状況

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)1回目の流行期の和歌山県白浜町の様子を熊野田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します。

不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。読みやすくするため、旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに変更するなど表記を改めました。

瀬戸村(現・白浜町)の状況

各地の感冒

▲瀬戸
目下弊村も悪性感冒流行各戸1、2名ずつはたいてい臥床、すでに?名死亡、数名の重症患者これありやにて医師もいちいち往診し切れざる状態なり。(24日発)

大正7年(1918年)11月27日付『牟婁新報』

東富田村(現・白浜町)の状況

大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』

東富田の感冒

悪性感冒今や山間部を襲撃して本郡にても栗栖川辺大流行の由なるがなお富田川筋では東富田最も猛烈にして中にも血深字が激しく毎日同字にて2、3人、全村にも5、6人の死者を出しつつありとは悲惨と言うべし。

大正7年(1918年)12月1日付『牟婁新報』

鉛山・南富田村(現・白浜町)の状況

その後の感冒

▲鉛山
各戸に2、3名の患者あり。医者も罹病。病人はみなみな大困艱。

▲南富田
大流行。学校は4日から休校。

大正7年(1918年)12月13日付『牟婁新報』

瀬戸村(現・和歌山県西牟婁郡白浜町):紀伊続風土記(現代語訳)
この地は牟婁ノ温泉の地で、古は別に大字がなかった。その地形は古海湾の北の端中間南北に切れて島があって別に迫門(せと)をなしていた(島はすなわち今の遠見番所及び御殿跡の地である)。海潮が退いて迫門が陸となり島とひとつとなる。人民が初めてこの地に村居をしてから迫門の名がこの地の大字となり文字を瀬戸と改めた。

鉛山村(現・和歌山県西牟婁郡白浜町):紀伊続風土記(現代語訳)
瀬戸海湾の内、白良浜より西南、温泉のある所が鉛山の領地である。村名は鉛を掘ったことから起こる。『続日本記』に大宝3年5月紀伊国阿提飯高牟婁郡に銀を献上させるとある。当郡にて銀が古く出た地は詳らかでない。この地は古に顕われた地で鉛の出た地なので銀の出たのはこの地のことであろう。

東富田村
明治22年(1889年)、十九淵村・富田村・朝来帰村の区域をもって発足。現在の白浜町の北西部。

南富田村
明治22年(1889年)、栄村・中村の区域をもって発足。現在の白浜町の南部。