神倉神社が廃社となって復社するまでの間のお燈まつりは行われていなかったのでは、というようなことを先日書いたのですが、どうも違うかも。
新宮の教師で郷土史家の小野芳彦が田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社主・毛利清雅(南方熊楠の神社合祀反対運動の盟友)に宛てた書簡が『牟婁新報』明治43年(1910年)4月9日付の紙面に掲載されていますが、そこには神倉神社について次のように書かれています。
……速玉神社の摂社としてその小祠は速玉社内に遷されたるも、その祭儀御燈祭は旧に依り、かの百尺懸崖の頭にて行い居り、……
毛利清雅「新宮町に於ける神社合祀の惨状……志士仁人は此通信を何んと見るか……」『牟婁新報』明治43年4月9日付
この小野芳彦の書簡によると、神倉神社が速玉神社(現・熊野速玉大社)に合祀されて廃社となった後も、お燈まつりは廃止されずに昔のように神倉山で行っているとのこと。
廃社になった神社のお祭りは普通廃止されると思うのですが、旧社地が公売されなかったことと合わせて神倉神社の合祀は異例づくしのものであったようです。
明治42年(1909年)の新宮の地方新聞の記事の中で、熊野地方の火祭りといえば那智の扇祭りと佐野の柱松の2つだと書かれたのは、お燈まつりが行われていなかったのではなく、他に何か事情があってお燈まつりを熊野を代表する火祭りには挙げられなかったということなのかもしれません。
神倉神社が廃社になったのが明治40年(1907年)で、復社するのが大正7年(1918年)。この間のお燈まつりについては『牟婁新報』の復刻版を見れば確認できるかな。
新宮町の地方新聞には『熊野新報』『熊野実業新聞』『熊野日報』があったけれど、復刻版は出てないですよね?