明治43年(1910年)5月以降、多数の社会主義者・無政府主義者たちが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙され、翌年24名が大逆罪により死刑または無期刑に処せられた「大逆事件」。
この「大逆事件」は、社会主義を恐れた政府が社会主義者たちを一網打尽にするために仕組んだ謀略であったというのが事の真相で、そのフレームアップ(でっち上げ)を行う舞台として熊野の中核的な都市であった新宮の町が選ばれました。
6人の熊野人が逮捕され、そのうちの2人が死刑、4人が無期懲役となりました。死刑となった1人に和歌山県請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎がいました。成石平四郎は処刑時28歳。妻子があり、一人娘はまだ2歳でした。
請川の成石家墓地に建てられた成石平四郎の墓には戒名が刻まれまず、「蛙聖成石平四郎之墓」と刻まれました。蛙聖は成石平四郎の号です。
それは国家的な大犯罪を犯した罪人だから周囲に気兼ねしたとかいうことではなく、成石平四郎自身の意志でした。このことについて作家・住井すゑは小説『橋のない川』のなかで以下のように記しています。
年齢は、満二十八歳と五ヶ月。どんな思いだったか……と、こちらは呼吸がつまりますが、成石氏自身は、もうすべて悟り切っていたことでしょう。それは絞首台に上る直前、母に伝えてくれと獄吏に頼んだ「遺言」によっても明らかです。それには———“死んで極楽へ行くか、地獄へ行くか、自分は選ばない。不滅の霊魂は自然に行くところに行くものだから、それでよい。また“戒名”は要らない。墓標には、『蛙聖成石平四郎之墓』と記してほしい。”
こう、しるしてあったそうです。そして辞世の句として、“行く先を 海とさだめし しずくかな”とあったそうです。
深い山中の、木の葉、草の葉に宿る露の一しずく。その一しずくが寄り添うて“草清水”となり、“草清水”が寄り添うて渓流となり、やがて合流して熊野川となり、そして熊野灘に流れ込んで大洋となる……これが自然の理です。自然の理に、正も邪もありません。美も醜もありません。敢えて言うなら、それは地球の相(すがた)。宇宙の顔でしょうか。
成石氏は刑死を前にして、このことを悟ったわけです。
住井すゑ『橋のない川 第七部』新潮文庫、383ページ
成石平四郎の墓に戒名が刻まれていないのは、平四郎自身の遺言によるものなのです。
大逆事件の犠牲者、成石平四郎とその兄勘三郎については『本宮町史 通史編』にかなりのページ数を割いて詳しく書かれています。大逆事件は熊野に大きな衝撃を与えました。