第26回南方熊楠賞受賞の中沢新一先生のご著書から、熊楠や熊野について語られている文章を改めて確認しています。
1992年発行の『ゲーテの耳』には「テレビをみるミナカタクマグス」と「救済する空間」。
「救済する空間」では、中世における熊野の信仰を取り上げています。
無でも有でもない、不思議なトポスに立って、熊野の神は一遍聖に念仏の本質を説く。そこは「機前」の空間として土着の神々の浄化力みなぎるところであり、「自然智」であり「本覚」でもある意識のスポンティニアスな運動がおこなわれているところでもある。そこは信心とか不信心とかをこえた、絶対的な安心の実現されるトポスだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、234-235頁)
一遍上人の熊野成道がこのように語られ、熊野については以下のように語られます。
熊野はケガレとなってあらわれてくる、そうした「過剰した自然」を自分のなかに受け入れ、浄化の力をほどこして、もとのバランスのとれた状態にもどす力をもっている、と考えられたのだ。……そんなことができるのは、自然が生成されてくるプロセスのさらに根源にひそんでいる、あの「機前」の空間のはらむラジカルな浄化力だけなのだ。
(中沢新一『ゲーテの耳』河出書房新社、235-236頁)
文庫化されています。
中沢新一先生のようには書けませんが、私も一遍上人の熊野成道については文章を書いていますので、お時間のあるときにでもお読みいただけたら嬉しいです。
一遍上人、熊野成道