本日6月3日は山本玄峰老師の命日。毎歳忌法要に参列しました。
その名は知らなくとも、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言は誰もが知っていることと思います。
山本玄峰老師は、時の総理の相談役を務め、太平洋戦争終結に尽力し、また天皇を国家の「象徴」とするよう示唆するなどした熊野出身の禅僧です。
太平洋戦争における日本の降伏を国民に伝えた玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言は、山本玄峰老師が鈴木貫太郎首相に宛てた書簡の一節から取られたものだと言われています。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」は禅宗ではよく使われる文言のようで、これを使って鈴木首相を励ましたのでしょう。
山本玄峰はまぎれもなく熊野が誇る偉人の1人であり、毎年命日にはその遺徳を忍び、湯の峰温泉の玄峰塔の前で午前10時から毎歳忌法要が営まれます。
山本玄峰は慶応2年生まれ。南方熊楠より1歳年上です。
大逆事件で逮捕され無期懲役となった成石勘三郎の仮出獄を請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の人たちが請願したときに、山本玄峰と南方熊楠がなんらかの力添えをしたようですが、2人がお互いをどう思っていたのか、気になるところです。
2人が出会ったことはなかったと思われますし、もしかしたらお互いに存在すら知らなかったということもあるかもしれませんが。
玄峰老師の遺書をここに。
竜沢寺、松蔭寺の住職たるものは、東嶺(竜沢寺開創)、遂翁(松蔭寺2代住職)の侍者たるべし。世の常の和尚ぶりとなること勿れ。正法興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ。よろしく正法を守り仏法を興すべし。自分の葬儀は絶対に行わざること。
(山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、「寿譜」より)
「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」が玄峰老師の教えでした。