本日6月3日は山本玄峰(やまもと げんぽう)老師の命日です。
山本玄峰老師は日本の近代史に大きな影響を与えた、熊野出身の禅僧。
慶応2年1月28日(1866年3月14日)生まれ。南方熊楠より1歳年上です。昭和36年(1961年)6月3日に96歳で亡くなりました。
日本が敗色濃厚ながらも敗北を認められず戦争継続に固執し、被害を拡大させていった太平洋戦争の最中、日本を守るには一刻も早く無条件降伏することだと玄峰老師は鈴木貫太郎首相に進言しました。鈴木首相は玄峰老師の進言を頼りに戦争終結に向けて尽力したといわれます。
玄峰老師は「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じ」という禅宗の始祖・達磨大師の言葉を用いて書簡で鈴木首相を励ましました。
昭和20年(1945年)8月15日正午に日本の降伏を伝えた玉音放送の一節「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」は、玄峰老師の書簡の一節が元になったと考えられています。
また戦後の象徴天皇制も、天皇をどうするかで悩んでいた新憲法の制定委員会が玄峰老師の示唆を受け入れて作り出されたものだといわれます。
玄峰老師が示唆したのは、天皇は一切政治に関係しない、主権は日本国民にあり、天皇を国民全体の象徴とし、政治を担当する者は国民を象徴する天皇の気持ちを受けて政治を行うという形にしてはどうかということでした。
玄峰老師の出身地
玄峰老師の出身地は湯の峰。玄峰老師の説法を本にした『無門関提唱』に湯の峰について語っている場面がありますので、引用します。
わしの生まれた紀州の屋敷にお湯が湧いた。…その湯が九十六度という熱さじゃ。その下の川のところに行っておるのが九十三度。たくさん湧いておる。…いまはわしの生まれた家もそこにはない。ただ庭になっている。昨年も今年も、お墓詣りにいった。あずまやさんという旅館があって親戚なものだから迎えにくる。…その湯の華をこの間送ってくれた。
これは不思議な効能がある。小栗判官が毒を飲まされて、照手姫が引いて藤沢の遊行寺の一遍上人が世話をした。癩病のようになった判官をあの湯に入れた。それですっかり病気が治ったという因縁がある。…癩患のいるところが別にしてあって、一時は七、八十人もいた。いまは収容所ができて、一人もおりません。不思議に効く湯じゃ。
大きな薬師さまがお祀りしてあるがそれが自然の湯の華のかたまりであって、そこに穴があいていて、元湯が湧いておる。それをある高僧が見つけた。それじゃから清盛が書いた紺紙金泥の経巻もあれば、重盛が書いた紺紙銀泥経巻もある。とにかくもと坊もあり、七堂伽藍がそろうておったのであるが、火災があってみな壊してしまった。そういうところでわしが何の因果か生まれた。
山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、105-106頁
玄峰老師の教え
「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」というのが玄峰老師の教えでした。
磨いたら磨いただけの光あり
山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、410頁
性根玉でも何の玉でも
汽車の走っているのをみると汽車が大きな速力で疾走しているように見えるが、実は下の何もしておらんようにしているレールがちょっと狂うても大へんなことになる。ところがレールの下に晩木(ばんぎ)がある。盤木の下にも、もう一つ大事の土地がある。汽車ばかり走っているのではない。人間お互もそうじゃ。 ちっとも働かんところの土が下にある。これが一番大事である。人間にもそれがある。一向働いておらんようでも、一番働いておるのが性根というやつ。それを感情とか知能とか心とか意識とかいろいろ名をつけておる。人間一番肝心、大切なところが抜かっておる。そのために坐禅弁道して、この一番大切なところのものを捕える。だから坐禅する。なんぼ機械が、どうしたところで、一番大切な性根玉がなければ、正しく動かん。 めいめいも、その一番大切な性根がしっかりしておるかどうか。
山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、126頁