俊寛の墓(喜界島) Snap55 – 投稿者撮影, CC 表示 3.0, リンクによる
3月2日は俊寛の命日。治承3年3月2日(1179年4月10日)、俊寛は亡くなりました。
俊寛は平安時代後期の真言宗の僧。後白河法皇の側近で、平家打倒の謀議に加わり、それが露見して薩摩(鹿児島)の南方海上にうかぶ鬼界ヶ島へ配流されました。
共に鬼界ヶ島に配流された藤原成経・平康頼はやがて赦されて京に帰ることができましたが、俊寛はひとり赦されず、絶望して食を断ち、弥陀の名号を唱えて死んでいきました。
藤原成経と平康頼は熊野信者であり、鬼界ケ島に熊野権現を勧請し、熊野権現に京に帰れるよう祈り続けました。俊寛は熊野信者ではなく祈りませんでした。そのため藤原成経と平康頼は京に帰れ、俊寛はひとり島に残された、と『平家物語』では語られます。
平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流 :熊野の説話
上皇や貴族たちによる熊野信仰が全盛を迎えた時代を『平家物語』は描いています。そのため『平家物語』にはそこかしこに熊野の影が見受けられます。