神倉神社が廃社になって復社するまでの間のお燈まつり

panpanzupan – https://app.find47.jp/ja/u/mNaFF?_ga=2.201018089.69036321.1530497003-22078316.1530497003, CC 表示 4.0, リンクによる

神倉神社が廃社となって復社するまでの間のお燈まつりは行われていなかったのでは、というようなことを先日書いたのですが、どうも違うかも。

新宮の教師で郷土史家の小野芳彦が田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社主・毛利清雅南方熊楠の神社合祀反対運動の盟友)に宛てた書簡が『牟婁新報』明治43年(1910年)4月9日付の紙面に掲載されていますが、そこには神倉神社について次のように書かれています。

……速玉神社の摂社としてその小祠は速玉社内に遷されたるも、その祭儀御燈祭は旧に依り、かの百尺懸崖の頭にて行い居り、……

毛利清雅「新宮町に於ける神社合祀の惨状……志士仁人は此通信を何んと見るか……」『牟婁新報』明治43年4月9日付

この小野芳彦の書簡によると、神倉神社が速玉神社(現・熊野速玉大社)に合祀されて廃社となった後も、お燈まつりは廃止されずに昔のように神倉山で行っているとのこと。

廃社になった神社のお祭りは普通廃止されると思うのですが、旧社地が公売されなかったことと合わせて神倉神社の合祀は異例づくしのものであったようです。

明治42年(1909年)の新宮の地方新聞の記事の中で、熊野地方の火祭りといえば那智の扇祭りと佐野の柱松の2つだと書かれたのは、お燈まつりが行われていなかったのではなく、他に何か事情があってお燈まつりを熊野を代表する火祭りには挙げられなかったということなのかもしれません。

神倉神社が廃社になったのが明治40年(1907年)で、復社するのが大正7年(1918年)。この間のお燈まつりについては『牟婁新報』の復刻版を見れば確認できるかな。

新宮町の地方新聞には『熊野新報』『熊野実業新聞』『熊野日報』があったけれど、復刻版は出てないですよね?

今は世界遺産の神倉神社でさえ明治時代には

昨日、お燈祭りが斎行された神倉神社
神倉山は熊野の神が熊野において最初に降臨した聖地であると考えられ、そのため神倉社は熊野根本神蔵大権現とも称されました。熊野信仰にとってとても重要な場所です。

神倉社は中世には修験道の修行の場であり、近世になっても神職はおらず社僧が祭祀を執り行なっていたため、明治初期に政府が行った神仏分離は神倉社に荒廃をもたらしました。

熊野新宮の神倉山に左甚五郎が立てた高名の掛作りがあったが、維新後、神仏混淆廃止で滅却された、今もかの辺で大工の宴会に、「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と唄う、と。

「読『一代男輪講』」『南方熊楠全集』4巻

江戸時代初期の伝説的の名工・左甚五郎が建てたとされた神倉社の拝殿も明治初期に神仏分離で失われました(台風で倒壊したとも火事で焼失したともいわれます。わずか150年ほど前のことですがはっきりしません。何はともあれ神倉社の拝殿や本殿は失われました)。

荒廃した神倉社は明治末期には合祀されました。神倉社の神様は他の神社に移動させられて神倉社は廃社となり、神倉山は神様不在とされました。

次に新宮には……万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖高倉下命を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。

「神社合祀に関する意見(原稿)」白井光太郎宛書簡、明治45年2月9日付『南方熊楠全集』7巻

「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売」したのは明治40年(1907年)のことで、このときに神倉社も合祀されました。

神倉社は火災があったときには廃朝しなければならないほどに重要な神社でした。廃朝とは天皇が服喪や天変地異などのために政務を執らないこと。国家にとって重要な神社に火災が起きたときには数日間の廃朝が行われました。

それほどの神倉社でさえも合祀されましたが、さすがに他の新宮町の神社と待遇を同じくするわけにはいきませんでした。

他の新宮町の神社は旧社地を売却され森を伐られて神社が元に戻れないようにされて速玉神社(現・熊野速玉大社)境内社の琴平社(現・新宮神社)に合祀されたのに対し、神倉社は速玉神社に直接合祀されるという形になり、また合祀された神社としては異例のことですが、旧社地は売却されることもありませんでした。

そのため神倉社は大正7年(1918年)には速玉神社の摂社としてですが、神倉社の神様を旧社地に戻すことができました。合祀された神社が復社されるのは異例のことですが、合祀時の異例の対応がそれを可能にしました。

昭和4年(1929年)にはゴトビキ岩の傍に本殿が再建され、またその後、社務所や鳥居なども再建されました。そして今では世界遺産です。

しかしながら「大工上手じゃ神の倉ご覧じ、岩に社を掛作り」と歌われた拝殿は150年ほど前に失われたまま、いまだ再建できていません。

神仏分離、神社合祀。明治政府の宗教政策は熊野をボロボロにしました。合祀され廃社にされた他の新宮町の神社も現存していれば世界遺産になったものもあったかもしれません。

H・G・ウェルズの『宇宙戦争』の火星人と、熊野の妖怪・肉吸い

上の動画は、H・G・ウェルズが1898年に発表したSF小説『The War of the Worlds(宇宙戦争)』を、スティーヴン・スピルバーグ監督が映像化し、2005年に公開した映画の予告篇。

『The War of the Worlds』は刊行からすでに100年以上が経つ宇宙人侵略ものSFの古典中の古典です。

このSF小説を南方熊楠は読んだらしく、熊野地方の妖怪・肉吸いについての文章の中でその内容に触れています。

熊楠はかつて20年前に出たウエルズか誰かの小説で、火星世界の住人がこの地球に来て乱暴する体を述べて、火星人は支体にタコの吸盤のような器を具し、地上の人畜に触れてたちまちその体の養分を吸い奪い、何とも手に合わないところ、かの世界に絶えて無く、この世界に有り余ったバクテリアがかの妖人を犯して苦もなく倒し終わるとあったと記憶するが、その他に類似の話を聞いた事がなく、肉吸いという名も例の吸血鬼などと異なりすこぶる奇抜なものと思う。

肉吸いという鬼 紀州俗伝(口語訳15-3)

肉吸いは人に触れるとたちまちことごとくその肉を吸い取るという妖怪。18,9歳の若い美女の姿でホーホー笑いながら近づいてくるといわれます。

「紀州俗伝」は『南方熊楠全集』第2巻に収録されています。