二・二六事件で大混乱の帝都で、北一輝と南方熊楠が!

本日2月26日は二・二六事件が発生した日。
1936年(昭和11年)2月26日、陸軍青年将校らが約1500人の下士官兵を率いて政府首脳を襲撃。首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠し、永田町周辺を封鎖。斎藤実内相、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害されました。

殺害された斎藤実内相(第30代内閣総理大臣)と高橋是清蔵相(第20代内閣総理大臣)は南方熊楠と面識のあった人物。海軍軍人であった斎藤実とはロンドン時代に出会っており、高橋是清は共立学校(現・開成高校)時代の英語の先生でした。

二・二六事件の理論的指導者のひとりとされたのが北一輝ですが、北一輝と南方熊楠の戦いを描いた伝奇小説があります。

戦国武将の名を名乗るSF作家・柴田勝家氏による南方熊楠を主人公にした『ヒト夜の永い夢』。

熊楠の研究によって作り出された粘菌コンピュータを搭載した自動人形「天皇機関」が北一輝によって奪われてしまいます。
北一輝が動かす「天皇機関」を止めるために熊楠は新たに自動人形「粘菌機関」を作ります。
共に熊楠が作り出した粘菌コンピュータ搭載の2つの自動人形、北一輝の「天皇機関」と熊楠の「粘菌機関」が二・二六事件で大混乱の帝都で対決します!!

本日2月25日は茂吉忌、斎藤茂吉は全く前途の光明を失っていたときに熊野を詣で

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斎藤茂吉 (明治15年-昭和28年) 田村茂(明治42年-昭和62年) – 文藝春秋新社 現代日本の百人(1953年刊), パブリック・ドメイン, リンクによる

本日2月25日は茂吉忌。斎藤茂吉(さいとう もきち)の命日。
斎藤茂吉は近代短歌史上に重要な位置を占める歌人で、精神科医。
1953年(昭和28年)2月25日に斎藤茂吉は亡くなりました。

斎藤茂吉は大正14年(1926)8月、斎藤茂吉44歳の折に熊野を訪れ、那智から大雲取越・小雲取越を越えて本宮まで歩いています。

この山越は僕にとっても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによった。しかも偶然二人の遍路に会って随分と慰安を得た。なぜかというに僕は昨冬、 火難に遭って以来、全く前途の光明を失っていたからである。

斎藤茂吉「遍路」

その前年の1924年(大正13年)まで斎藤茂吉は精神病学研究のためヨーロッパに留学しており、ミュンヘン大学で博士号を取得し、10月に帰国の途につきました。希望を抱いての帰国であったでしょうが、その船上で茂吉は養父・斎藤紀一の経営する青山脳病院が全焼したとの報せを受けます。留学先で買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失しました。

1925年(大正14年)1月に帰国。病院再建に奔走するも、茂吉は「全く前途の光明を失って」いました。そのような精神状態で熊野を詣で、そして翌1926年(大正15年)4月に青山脳病院を養父とともに復興させました。

熊野は蘇りの聖地といわれますが、斎藤茂吉はまさにこの熊野への旅で蘇ったのでしょう。

本日2月24日は河口慧海の命日

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Platinum print of Ekai Kawaguchi Zaida Ben-Yusuf – Philadelphia Museum of Art, パブリック・ドメイン, リンクによる

本日2月24日は河口慧海(かわぐち えかい)の命日。
仏教の原典を求め日本人として初めてチベット・ラサに潜入した仏教学者、探検家。1945年(昭和20年)2月24日に河口慧海は亡くなりました。

河口慧海は1866年(慶応2年)生まれ。南方熊楠より1歳だけ上の熊楠と同時代の人物です。熊楠も若い頃にはチベットに行くことを夢見ていました。

小生はたぶん今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより船にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。

土宜法龍宛書簡、日付なし『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、239頁

ロンドン時代に熊楠は真言宗の僧侶・土宜法龍に宛てた書簡でチベット行きの夢を語りました。書簡の続き。

インドよりチベットへ行く途ははなはだ難き由申せども、私考には何でもなきことと存じ候。むかし玄奘、法顕諸師のことはさておきぬ、回々教のイブン・バツタと申すもの、アフリカ、インド、支那、チベットの間七万五千マイルをあるきたることの記録ものこりおり候えば、運命さえあらば何するもできぬことはなく、運命なければ綿の上へ死ぬる人もあることと信ぜられ申し候。

土宜法龍宛書簡、日付なし『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、239-240頁

熊楠がチベットに行っていたらどうなっていたのでしょうか?