熊野速玉大社境内にある句碑に刻まれた野口雨情(のぐち うじょう)の俳句。
本日1月27日は雨情忌。
野口雨情の命日。1945年(昭和20年)1月27日に野口雨情は亡くなりました。
野口雨情は大正から昭和にかけて活躍した詩人、作詞家。『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』などで知られます。
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熊野速玉大社境内にある句碑に刻まれた野口雨情(のぐち うじょう)の俳句。
本日1月27日は雨情忌。
野口雨情の命日。1945年(昭和20年)1月27日に野口雨情は亡くなりました。
野口雨情は大正から昭和にかけて活躍した詩人、作詞家。『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』などで知られます。
明治43年(1910年)5月以降、多数の社会主義者・無政府主義者たちが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙され、翌年24名が大逆罪により死刑または無期刑に処せられた「大逆事件」。
この「大逆事件」は、社会主義を恐れた政府が社会主義者たちを一網打尽にするために仕組んだ謀略であったというのが事の真相で、そのフレームアップ(でっち上げ)を行う舞台として熊野の中核的な都市であった新宮の町が選ばれました。
6人の熊野人が逮捕され、そのうちの2人が死刑、4人が無期懲役となりました。死刑となった1人に和歌山県請川村(現・和歌山県田辺市本宮町請川)の成石平四郎がいました。成石平四郎は処刑時28歳。妻子があり、一人娘はまだ2歳でした。
請川の成石家墓地に建てられた成石平四郎の墓には戒名が刻まれまず、「蛙聖成石平四郎之墓」と刻まれました。蛙聖は成石平四郎の号です。
それは国家的な大犯罪を犯した罪人だから周囲に気兼ねしたとかいうことではなく、成石平四郎自身の意志でした。このことについて作家・住井すゑは小説『橋のない川』のなかで以下のように記しています。
年齢は、満二十八歳と五ヶ月。どんな思いだったか……と、こちらは呼吸がつまりますが、成石氏自身は、もうすべて悟り切っていたことでしょう。それは絞首台に上る直前、母に伝えてくれと獄吏に頼んだ「遺言」によっても明らかです。それには———“死んで極楽へ行くか、地獄へ行くか、自分は選ばない。不滅の霊魂は自然に行くところに行くものだから、それでよい。また“戒名”は要らない。墓標には、『蛙聖成石平四郎之墓』と記してほしい。”
こう、しるしてあったそうです。そして辞世の句として、“行く先を 海とさだめし しずくかな”とあったそうです。
深い山中の、木の葉、草の葉に宿る露の一しずく。その一しずくが寄り添うて“草清水”となり、“草清水”が寄り添うて渓流となり、やがて合流して熊野川となり、そして熊野灘に流れ込んで大洋となる……これが自然の理です。自然の理に、正も邪もありません。美も醜もありません。敢えて言うなら、それは地球の相(すがた)。宇宙の顔でしょうか。
成石氏は刑死を前にして、このことを悟ったわけです。
住井すゑ『橋のない川 第七部』新潮文庫、383ページ
成石平四郎の墓に戒名が刻まれていないのは、平四郎自身の遺言によるものなのです。
大逆事件の犠牲者、成石平四郎とその兄勘三郎については『本宮町史 通史編』にかなりのページ数を割いて詳しく書かれています。大逆事件は熊野に大きな衝撃を与えました。
大逆事件で死刑判決を受けた24人のうち6人が熊野人でした。
大石誠之助(和歌山県新宮町)、成石平四郎(和歌山県請川村)、高木顕明(和歌山県新宮町)、峯尾節堂(和歌山県新宮町)、崎久保誓一(三重県市木村)、成石勘三郎(和歌山県請川村)。
6人のうち実際に死刑となったのは2人。大石誠之助と成石平四郎。他の4人は特赦で減刑されて無期刑となりました。無期刑となった4人のうち高木顕明と峯尾節堂は獄死し、崎久保誓一と成石勘三郎は仮出獄を許されました。
この6人のうち南方熊楠の面識があったのは死刑となった成石平四郎でした。
またその兄、成石勘三郎については面識はなかったものの、請川村の人たちが成石勘三郎の仮出獄の請願をしたときには南方熊楠も力添えをしました。
仮出獄を許されたのは昭和4年(1929年)4月29日。30歳で服役した成石勘三郎は49歳になっていました。
5月に帰郷し、その後、熊楠の力添えのあったことを知った勘三郎は書簡で熊楠へ感謝を伝えました。
昨秋でした、川島君の友に植幸吉というのが当地にありまして、田辺からの帰りがけの御噺に、
杉中浩一郎『南紀・史的雑筆』「出獄後の成石勘三郎」
「君が今回仮出獄を戴いたについては、川島君の御話では、南方先生が非常に御骨折り下さったのだ、そしてまだこの上にも、仮出獄という名義を除いて復権されるように、御骨折りくださってあるから、謹慎して且つ楽しく待つように」
と告げられまして、誠に有難く、窃に落涙致しました。私のような煩悩具足の五逆十意なさざるなき人非人を恒に御心にかけて、ああ獄中では苦しい事であろう、何とかして出してやる方法もがなと御配慮下されしは、皆如来の御紹介に依る尊い交誼、真個に御礼の申す辞葉もない次第でございます。万望この上ながら御縁乎を以て種々御配慮下さいませ。
※昭和5年1月31日付の成石勘三郎の南方熊楠宛書簡は、他では活字化されていないようなので、こちらから孫引きしました。読みやすくするため一部改変。
この書簡が届いた翌日に熊楠は返事を出しましたが、返信の書簡は見つからず、それがどのような内容であったのかはわかりません。
成石勘三郎は逮捕前には若くして請川村の村会議員を務めていた人物で、仮出獄の請願には湯の峰生まれの禅僧・山本玄峰も力添えをしました。
成石勘三郎は熊楠へのお礼の書簡を出してからおよそ1年後の昭和6年(1931年)1月3日に50歳で病没しました。