本日は田辺市文化賞推薦委員会委員として田辺市文化賞贈呈式に出席しました。
50回目となる今年の受賞者は桶職人の松本濱次(まつもと はまじ)氏。
桶づくりには正直と呼ばれる工程があるそうですが、正直なお仕事の積み重ねが今回の受賞に結びついたのだと思います。おめでとうございます!
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本日は田辺市文化賞推薦委員会委員として田辺市文化賞贈呈式に出席しました。
50回目となる今年の受賞者は桶職人の松本濱次(まつもと はまじ)氏。
桶づくりには正直と呼ばれる工程があるそうですが、正直なお仕事の積み重ねが今回の受賞に結びついたのだと思います。おめでとうございます!
11月22日は「いい夫婦の日」。
夫婦ともに日本の歴史上に名を残す人物というと、源頼朝と北条政子が思い浮かびます。頼朝と政子はそれぞれ2人の変わらぬ愛の証に梛の葉を持っていたといわれます。
当時、貴族や有力武家の間では一夫多妻が普通でした。頼朝の祖父・源為義は複数の妻妾をもち、46人の子がいたといわれます。そんな時代に北条政子は頼朝が複数の妻妾をもつことを許しませんでした。
頼朝は熊野を詣でることはありませんでしたが、政子は頼朝の没後、2度の熊野詣を行っています。
1度目は承元2年(1208年)。政子52歳。頼朝の死から13年後、嫡男・頼家が暗殺されてから4年後のことです。
2度目は建保6年(1218年)。政子62歳。那智山への熊野古道沿いにある尼将軍供養塔はこのときに政子が我が子を供養するために建立したものだと伝えられます。
このあと次男の実朝の暗殺や後鳥羽上皇による承久の乱がありますが、政子はそれらの危機を乗り越えていきます。
11月20日は「いいかんぶつの日」。
日本の三大乾物といえば昆布、鰹節、干し椎茸。
そのうちの鰹節が日本で広く使われるようになったのは、江戸時代中期頃からです。
現在の荒節に近いものが作られるようになったのが江戸時代初期。
その製法を開発したのは、紀州印南浦の漁師・角屋甚太郎(かどやじんたろう)で、延宝2年(1674年)のことだとされます。
角屋甚太郎が開発した魚肉を燻して乾燥させる「燻乾法(くんかんほう)」は熊野の浦々にも伝えられ、紀州で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)と呼ばれて人気を博しました。
熊野節の製法は紀州印南浦の漁師により土佐に伝えられ、しばらく熊野節は紀州と土佐でのみ生産されましたが、その後、安房や伊豆、薩摩にも伝えられ、それぞれの地が鰹節の名産地となりました。そうして鰹節は江戸時代中期頃から広く庶民にも使われるようになり、日本料理に欠かせない食材となったのです。
和食の味付けの基本が形作られていく過程のなかで紀州の人たちは大きな貢献を果たしました。