先日、山道を歩いていたらシーボルトミミズに出会いました。
体長30cmほどで、体の色は光沢のある青紫色のミミズです。
江戸時代に長崎・出島にやってきたドイツ人医師のシーボルトが日本からオランダに持ち帰った標本によって新種として報告されたことからシーボルトにちなんだ学名(Pheretima sieboldi (Horst) )が付けられ、和名もシーボルトミミズと付けられました。日本産のミミズで初めて学名が与えられたのがシーボルトミミズです。
日本固有種で、熊野だけに生息するわけではなく、中部地方からに西に広く分布します。
熊野では地域によってカンタロウとかカブラタとか呼びます。ウナギ釣りの餌に使われます。短く切って針に付けます。たぶんウナギにとって美味しそうな匂いがするのだと思います。
日本の民俗学の創始者の1人でもある南方熊楠は、熊野の山中に住む人がシーボルトミミズの肉を淋病の薬だと言って、裂いて土砂を取り除いて、その肉がまだ動いているの食べるのを見たことがあるそうです。
山中に住む人に淋病多し。西牟婁郡兵生(ひょうぜい)などで、木挽輩がその薬とて、勘太郎という碧紫色の大蚯蚓、長七、八寸あるを採り、裂きて土砂を去り、その肉まだ動きおるを食う。実に見るも胸悪い。
「紀州の民間療法」『南方熊楠全集』2巻、平凡社、497頁
小さなミミズなら今も漢方薬として発熱や気管支喘息の薬として用いられていますので、シーボルトミミズにも何らかの効能があるのかもしれません。また他の地域でもそのようなことが行われてのかも気になるところです。
話はシーボルトミミズから脱線しますが、熊楠とミミズについて。シーボルトミミズではなく、小さなミミズの話です。
熊楠は子供の頃、ミミズが大嫌いでした。和歌山中学(現・桐蔭高校)時代のある日、鳥山啓という博物学の先生に引率されてクラス一同で山に植物採集に行ったときのことです。熊楠はふと自分の足許にミミズが体をくねらせているのを見つけて、思わず悲鳴をあげました。
そのとき鳥山啓先生は熊楠に「これから自然科学の道を歩もうとしている君がミミズを恐がってどうするか、今日からミミズに親しむことからはじめなさい」と指導したそうです。
熊楠はそれから毎日、手のひらにミミズを乗せる訓練をしました。3分、5分とだんだん時間を延ばしていって、そのうち平気でミミズを手掴みできるようになっていったそうです。
子供の頃の熊楠がシーボルトミミズを見たらその場から逃げ出していたかもしれません。鳥山啓は熊楠が先生と呼ぶ、熊楠の人生に大きな影響を与えた最大の恩師でした。
シーボルトミミズに話を戻しますと、シーボルトミミズはユニークなライフスタイルを持っています。
寿命は2年で、同一地域では2年に1度しか産卵されません。同一地域では全個体みんな同い年で、みんな同じに大人になって同じに産卵して死んでいきます。
また季節によって大きく移動します。春から秋にかけては山の斜面に広く分散して生活しますが、冬には全ての個体が谷底に集まって越冬します。
これらのユニークなライフスタイルは身を守る武器を持たず毒も持たないシーボルトミミズが生き延びるために編み出しだ生存戦略のようで、ミミズを餌とするイノシシなどの動物に対抗するためのもののようです。
こういうユニークな生態を知ると、生き物ってそれぞれの方法で数億年だか数万年だか生き延びて来たんだなと改めて思います。