なぜ神島の神様は竜神、蛇神とされるのか

彎珠(わんじゅ、ハカマカズラ)、撮影場所は江須崎島

南方熊楠の神社合祀反対運動のシンボル的な場所であり、国の天然記念物で、国の名勝「南方曼陀羅の風景地」の一部である神島。

神島の神様は大晦日の夜に竜神の姿で現れて海を渡ると信じられていました。目指す先は田辺市秋津の竜神山でしょうか。

神島の神様は竜神山の神様と同体だと伝えられます。竜神山の神様も竜神。神島沖に現れた竜神が立ちのぼり、いったん闘雞神社の森に留まり、その後、竜神山に鎮まったと伝えられます。

あるいは蛇神とも言われます。普段は蛇の姿でいて、ときおり竜神の姿になって空を飛ぶと考えられたのかもしれません。

神島の神様が竜神、あるいは蛇神とされるのはなぜか。

それは神島に生える彎珠(わんじゅ)という蔓植物のためであろう、と南方熊楠は考えました。

彎珠は今ではハカマカズラと呼ばれます。熱帯系の蔓植物で沖縄では普通に見られる植物ですが、本州ではたいへん珍しく、本州での分布は紀伊半島南部の西側の海岸線に数ヶ所点在するのみです。

森の中で木から木にかかる彎珠のつるは大蛇のように見えます。ひとり森の中にいると気味悪く思うほどだと熊楠は述べています。

神島の神様が竜神、蛇神とされたのは彎珠(ハカマカズラ)が神島に生えているから、というのは神島の森の中に入った者が実感することなのでしょう。

神島の神様はとくに彎珠を大切にするとされました。

昭和天皇に希望されて熊楠が生物学のご進講(天皇や貴人に学問の講義をすること)をしたとき、時間は25分と決められていましたが、延長を求められ、5分ほど時間を超過して講義が行われました。その延長時間のなかで熊楠は、神島での彎珠の保護についても語ったそうです。

神島について紹介する4分ほどの動画を作りました。ぜひご覧ください。

……海上鎮護の霊祗として、本村は勿論近隣町村民の尊崇はなはだ厚く、除夜にその神竜身を現じて海を渡るよう信じたり。

「神島の調査報告」『南方熊楠全集』十巻、平凡社

この島は千古、人が蛇神をおそれて住まざりし所なり。自生の楝あり。また海潮のかかる所に生ずる塩生の苔 scale-moss あり。奇体な島なり。

松村任三宛書簡、明治四十四年八月二十九日付『南方熊楠全集』七巻、平凡社

神島の植物さまざまだが、なかんずく名高いのは彎珠だ。もと槵珠と書いたらしく、槵はムクロジで、共に数珠にするから謬り称えたらしい。……豆科のバウヒニア属の木質の藤で、喬木によじ登り数丈に達し、終にその木を倒す、林中の幹から幹に伸び渡った形、大蛇のごとし。むかし、この神島の林に入って蛇というを禁じ、一言でも蛇といえば木がたちまち蛇に見えると言ったは、本来この藤が蛇に似たからだろう。

「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』六巻、平凡社

 古伝に、神島に毒虫あるも人を害せず、これ島神の請願による。
 故に夏期に熊野に詣ずる者、多く島神に祈り彎珠一粒を申し受け、これを佩びて悪気と毒虫を避けしという。宇井縫蔵の『紀州植物誌』にいわく、神島産の彎珠は、幹の最も太きもの周囲一尺ばかり、蜿蜒として長蛇のごとく、鬱蒼たる樹間を縫うて繁茂せり、と。これよく形容せるの辞、単独林下に在りてはいと気味悪く覚ゆるほどなり。したがって古く島神を竜蛇身を具え悪気毒虫を制すと信ぜしなるべし。

「神島の調査報告」『南方熊楠全集』十巻、平凡社

彎珠の用途は、ただ念珠を作るだけで、欧米でいわゆるシー・ビーンス(海豆)を種々の装飾や耳環の鎮に使うごときに至らず。数珠商人にきいたは、他所の産は種子の表裏共に多少の凹凸ありて下品なり、神島のもののみ表裏に凹凸なく滑らかで上品だ、と。これは神島の彎珠は、神が惜しむとて滅多に採らず、久しく木に付いて十分成熟した後、腐葉土に埋もれて滑らかになったのだ。しかるに、近来急いで蚤く採るから、神島また凹凸不斉なもの多し。

「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』六巻、平凡社

熊野各地にかつてあった森そのものをお祀りする神社、神森。神島も江戸時代には神島明神森でした。

明治末期の神社合祀で神社は潰されたものの、南方熊楠や地域の住民たちの抵抗により森は守ることができた神島(かしま)。

神島の森は江戸時代には神島明神森と呼ばれました。紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』の新庄村の項には次のように記されています(私による現代語訳)。

○神島明神森  境内島九町
鳥ノ巣より海上三町ばかりを隔てて神島にある。祭神は詳らかでない。

新庄村:紀伊続風土記(現代語訳)

「神森」とは、森そのものをお祀りする神社のこと。森そのものを神社とする神社。かつての熊野には「神森」と呼ばれる神社が各地にありました。

『紀伊続風土記』に記されたいくつかの「神森」の記述によると、「神森」には社殿があるものもあり、社殿がないものもありますが、もともとは社殿はなかったのであろうと思われます。 

古代の日本人が神様と出会う場所というのは建物のなかではなく、森のなかにぽっかりと空いた、木々に囲まれた空間であったのだろうと想像されます。おそらくは森の中にぽっかりと空いた空間が神社の始まりでした。そのような古い信仰の形が熊野では100年ほど前まで伝承されていました。

神森は明治末期の神社合祀で、ほとんどが潰されました。潰された神森の森は伐採されました。神島明神森のように神社が潰されたにも関わらず森が残されたのは極めて稀なケースです。

神島についての動画をYouTubeに公開しました。ぜひご覧ください。

変形菌によって結ばれた南方熊楠、小畔四郎、昭和天皇

キャラメル箱
昭和天皇へのご進講の際に標本箱を入れて献上したキャラメル箱のレプリカ
南方熊楠顕彰館所蔵

明日6月1日は南方熊楠が昭和天皇にご進講(天皇や貴人の前で学問の講義をすること)を行なった日。

今から90年前の昭和4年(1929年)6月1日に熊楠は神島(かしま)で昭和天皇に拝謁し、その後、御召艦長門に移動して生物学のご進講をしました。

変形菌学者でもあった若き昭和天皇が日本における変形菌研究の先駆者である熊楠から講義を受けることを望まれて実現した二人の出会いでした。

このとき熊楠が数え年で63歳、昭和天皇が29歳。これが二人の最初で最後の出会いとなりました。

この田辺での熊楠のご進講の7日後の6月8日には神戸で、熊楠の変形菌研究の弟子である小畔四郎(こあぜ しろう)も昭和天皇にご進講を行いました。

熊楠と昭和天皇の出会いは1度きりでしたが、弟子の小畔四郎は時折皇居に参上して昭和天皇のお話し相手をつとめるほどの関係になりました。

熊楠が小畔四郎に出会ったのは明治35年(1902)1月15日、那智の滝のもとでのこと。熊楠が数えで36歳、小畔28歳。小畔は熊楠の変形菌研究の重要な協力者となり、資金面での支援も行う後援者ともなりました。

小畔四郎との出会いは熊楠にとってとても大きなものでしたが、小畔四郎にとってもとても大きなものでした。それまで変形菌のことなど知らなかった小畔が熊楠の指導を受けて熊楠の変形菌研究の第一の高弟となり、熊楠一門を代表して変形菌標本を昭和天皇に献上し、ご進講も行い、昭和天皇のお話し相手になるほどになりました。熊楠との出会いが小畔の人生を大きく変えたのです。 

熊楠との出会いは1度きりでしたが、昭和天皇は小畔四郎を通じて熊楠とのつながりを感じられていたのかもしれません。

熊楠はご進講から12年後、神島が国の天然記念物指定から5年後の昭和16年(1941)12月29日に数えで75歳(満74歳)で亡くなりました。日本軍の真珠湾攻撃(12月8日)から3週間後のことです。

戦後間もなく、大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三は昭和天皇から熊楠の逸話めいたものを聞かされた。1929年の田辺での進講の時の話で「南方には面白いことがあったよ。長門(注、御召艦)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」というものだった。

没後の顕彰 | 南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸)– Minakata Kumagusu Archives
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

南方熊楠記念館の敷地に建てられた歌碑に刻まれた昭和天皇の御製。

昭和37年(1962)5月、昭和天皇は南紀行幸した折に白浜の宿から神島を眺め、33年前に出会った熊楠を追憶し、その翌年の正月にこの歌を発表しました。

雨に煙る神島を見て紀伊の国が生んだ南方熊楠を思う。
昭和天皇が熊楠に敬意を覚えておられたことが伝わってくる歌です。

昭和5年(1930)に行幸1周年を記念して建立された神島の行幸記念碑に刻まれた熊楠の歌「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ」に対する時を隔てての返歌のように思えます。

行幸記念碑
一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ

(神島は国指定天然記念物。島内への立ち入りは禁止。上陸には田辺市教育委員会の許可が必要)

神島

熊楠が昭和天皇にお迎えした神様の島「神島」についての動画をYouTubeに公開しました。ぜひご覧ください。
https://youtu.be/bE0Jm57l1Kg

聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある由

上松蓊宛書簡、昭和四年五月十九日付『南方熊楠全集』九巻、平凡社