南方熊楠ゆかりの地5 南方熊楠邸

南方熊楠ゆかりの地紹介、第5回目は和歌山県田辺市にある南方熊楠邸

千代田区立日比谷図書文化館にて開催される「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」の写真展・ポスター展(5月22日〜6月17日)、シンポジウム(6月14日)に向けて熊楠ゆかりの地を紹介しています。

南方熊楠が二十五年を過ごし、終の住まいとした邸。熊楠邸は娘文枝の遺志で田辺市に寄贈され、現在は国の登録有形文化財。隣接して南方熊楠顕彰館があります。

庭は熊楠の研究園であり、菌類や変形菌を生やすために朽ち木が山と積まれ、落ち葉は積もるがままにされたそうです。数百種の顕花植物が生えていたといわれ、とりわけ母屋の前に生える楠は熊楠の自慢でした。

予が現住宅地に大きな樟の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節書斎から本宅へ走り往くを援護する、その功抜群だ。
(「巨樹の翁の話」『南方熊楠全集2巻』平凡社、47頁)

こちらの書斎と母屋を急雨の際に行き来するのに楠が助けてくれました。

熊楠は自分の名前にある楠に特別なつながりを感じていました。熊楠の名前は、和歌山県海南市にある藤白神社の神主から授かったものです。

藤白神社はもと熊野九十九王子の1つ、藤白王子。熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高いものとしてされた五体王子です。藤白王子には「熊野一の鳥居」と称される熊野の入口とされた大鳥居がかつてありました。

藤白神社の神主は子供の名前に、熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に楠神として祀られている楠の大樹にちなんだ「楠」などのうちから1字を授けました。

なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。
(「南紀特有の人名」『南方熊楠全集3巻』平凡社、439頁)

熊楠という名前の意味するところは「熊野の楠」であり、熊楠の神社合祀反対運動はまさに熊野の楠を守る戦いでもありました。

写真展・ポスター展の写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。

南方熊楠ゆかりの地4 日吉神社

南方熊楠ゆかりの地紹介。第4回目は和歌山県田辺市にある日吉神社

千代田区立日比谷図書文化館にて開催される「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」の写真展・ポスター展(5月22日〜6月17日)、シンポジウム(6月14日)に向けて熊楠ゆかりの地を紹介しています。

礒間の日吉社、御子浜の神楽社は、これに中入するに奇橋岩を以てし、田辺湾中第一の絶景なる上、上出如き珍異の生物少なからず。
(「楠見郡長に与る書 (下)」明治42年10月3日『牟婁新報』)

熊楠が「田辺湾中第一の絶景」と称賛した、礒間の日吉神社と御子浜の神楽神社と鬼橋岩と、礒間浦がそこに生み出す風景。

行く行くこの辺へ都会の人士来たりて観光する時の奇賞はこの間に集まるべきなり。
(「神島のバクチの木に関する補遺、及び天然記念物保護」明治44年8月9日付『牟婁新報』)

日吉神社から神楽神社にかけての辺りがこの地域の観光の見所となるだろう、と熊楠は考えていました。

この日吉神社も熊楠たちの合祀反対の抗議のおかげで守られた神社です。

猴神の古社あって今は日吉神社と号し、先年合祀さるるところを予輩烈しく抗議して免れた。
(「紀州俗伝」『南方熊楠全集2巻』平凡社、361頁)

神仏分離以前の社名は山王権現社。
土地の人々には「猿神さん」と呼ばれ、お祭りにはお猿の神輿が出ます。

道中より青年団のお猿さん、獅子舞、子供神輿、鼓笛隊が前後について最高潮の賑いとなり見物人が大勢つめかける。お猿と獅子と神輿が乱舞交錯、練り続き3時すぎ神輿は宮へ還幸す。
(『和歌山県神社誌』和歌山県神社庁、339頁)。

以前はこの猴神の祭りへ日高郡等遠方から農民おびただしく参詣した。「さるまさる」と言うて、猴を農家で蕃殖の獣として尊ぶのだそうな。
(「紀州俗伝」『南方熊楠全集2巻』平凡社、361頁)

遠方からおびただしく農民が集まったというこのお祭りも、熊楠がいなければ失われていたところでした。

お祭りは昔は12月の申の日に行われましたが、現在は11月3日に行なわれます。

写真展・ポスター展の写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。

南方熊楠ゆかりの地3 田中神社

千代田区立日比谷図書文化館にて開催される「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」の写真展・ポスター展(5月22日〜6月17日)、シンポジウム(6月14日)に向けての熊楠ゆかりの地紹介。第3回目は和歌山県上富田町にある田中神社

この辺に柳田国男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり、勝景絶佳なり。
松村任三宛書簡、明治四十四年八月二十九日付『南方熊楠全集7』平凡社、493頁)

田の中にこんもりとした神社の森があるという日本に特有の風景を、熊楠は「勝景絶佳」と称賛しました。

田中神社について読んでいただきたい文章が下記リンクの新聞記事。熊楠の談話を牟婁新報の記者がまとめたものです。短い文章なのでぜひお読みください。
岡の田中神社をツブしちゃ困る—南方先生の談話—

この短い文章のなかで熊楠が名前を挙げている植物は、ミサオノキ、ホンゴウソウ、ウエマツソウ、サンゴ蘭、マヤラン、ムヨウラン、シロシャクジョウの7つ。

この7つのうち5つ(ホンゴウソウ、ウエマツソウ、マヤラン、ムヨウラン、シロシャクジョウ)は光合成をせず、菌類から養分をもらって生活する菌寄生植物です。

サンゴ蘭はどんな植物か確認できませんでしたが、これも菌寄生植物なのかもしれません。

熊野の森の豊かさの象徴として熊楠はとくに菌寄生植物を挙げていますが、田中神社のあの小さな森にこれほどの豊かさがあったとは驚きです。

多くの菌寄生植物が生えるということは、土の中に極めて多様で豊かな菌根菌の菌糸のネットワークがあるということです。土壌中の生物多様性が、地上の生物多様性をもたらします。

専門学上のことをかれこれ話しても所詮はないが、近来岡川や田中神社の神林を伐採するという話がある。伐られては学問上大損害を受けるわけじゃから、ドウかそのような無知なことはぜひ思い止まって貰いたい。
(「岡の田中神社をツブしちゃ困る—南方先生の談話—」大正5年1月13日『牟婁新報』)

熊楠がいなければ失われていたであろう田中神社も、現在では国の名勝「南方曼陀羅の風景地」の一部。かつての豊かさはかなり失われているものと思われますが、それでもこれからもずっと大切に守らなければならない森です。

写真展・ポスター展の写真は、CEPAジャパン代表で公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員の川廷昌弘さんが撮影したもの。私が現地のご案内をしました。

このブログに掲載している写真は私が撮影したものです。