本日3月2日は俊寛の命日

俊寛の墓.jpg
俊寛の墓(喜界島) Snap55 – 投稿者撮影, CC 表示 3.0, リンクによる

3月2日は俊寛の命日。治承3年3月2日(1179年4月10日)、俊寛は亡くなりました。
俊寛は平安時代後期の真言宗の僧。後白河法皇の側近で、平家打倒の謀議に加わり、それが露見して薩摩(鹿児島)の南方海上にうかぶ鬼界ヶ島へ配流されました。

共に鬼界ヶ島に配流された藤原成経・平康頼はやがて赦されて京に帰ることができましたが、俊寛はひとり赦されず、絶望して食を断ち、弥陀の名号を唱えて死んでいきました。

藤原成経と平康頼は熊野信者であり、鬼界ケ島に熊野権現を勧請し、熊野権現に京に帰れるよう祈り続けました。俊寛は熊野信者ではなく祈りませんでした。そのため藤原成経と平康頼は京に帰れ、俊寛はひとり島に残された、と『平家物語』では語られます。
平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流 :熊野の説話

上皇や貴族たちによる熊野信仰が全盛を迎えた時代を『平家物語』は描いています。そのため『平家物語』にはそこかしこに熊野の影が見受けられます。

本日3月1日はビキニデー、マグロ漁船・第五福竜丸などが被曝した日

「第五福竜丸建造の地」碑
「第五福竜丸建造の地 古座川中洲」 和歌山県串本町

本日3月1日はビキニデー。アメリカが太平洋ビキニ環礁において水爆実験を行った日。1954年3月1日。第二次世界大戦後の初めて行われたこの核実験によって、マーシャル諸島の人々や多くの日本漁船などが被災しました。

長らく隠蔽されてきましたが、当時の水産庁の文書によると被災漁船総数は1423隻、放射能汚染魚を廃棄した漁船数は992隻。
ビキニ核実験 被災は1423隻 文書に記載/紙議員に水産庁初めて提出

これらの被災した日本漁船のうちで当時公にされたのは第五福竜丸のみ。

第五福竜丸は被曝時、静岡県焼津市の焼津港を母港とするマグロ漁船でしたが、建造されたのは和歌山県古座町(現・串本町古座)の古座川河口の中洲に1960年頃まであった古座造船所でした。

第五福竜丸はアメリカが設定した危険水域の外で操業していましたが、実際の威力はその想定よりも遥かに大きかったために多量の放射性降下物「死の灰」を浴び、船員23名全員が被爆しました。

第五福竜丸の被曝から8ヶ月後の1954年11月3日に映画「ゴジラ」が公開されました。

映画「ゴジラ」の作中で、古生物学者の山根恭平博士はゴジラについて「ジュラ紀から白亜紀にかけて生息していた海棲爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物の末裔が、ビキニ環礁の原子爆弾研究で安住の土地を追われ、出現したのではないのか」と説明します。

ゴジラは第五福竜丸の被曝から着想され、生み出された怪獣なのです。

本日2月29日は出口王仁三郎が無期懲役の判決を言い渡された日

本日2月29日は出口王仁三郎が無期懲役の判決を言い渡された日。

1940年(昭和15年)2月29日、第二次大本事件の第一審で、大本教主・出口王仁三郎は不敬罪・治安維持法違反で無期懲役の判決を言い渡されました。

近露王子之跡
近露王子之跡

和歌山県田辺市中辺路町にある近露王子跡の境内には「近露王子之跡」と刻まれた碑がありますが、これは大本教主・出口王仁三郎の筆跡によるものです。

王子碑の文字について

「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名がないけれども大本教主出口王仁三郎の筆跡である。昭和八年(1933)三月二十一日この地に来て休息した際、当時の近野村長横矢球男の依頼で用紙に筆をふるったのである。翌年一月それを彫りつけた王子碑が建立されたが、二年後の昭和十年十二月大本教は二回めのはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならぬことになった。その時横矢は、この文字は筆跡を自分が模写したものであると主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出した上で、碑面に見られた「王仁」の書名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたという。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはここだけだとされている。

市教育委員会設置の現地案内板

1942年(昭和17年)7月31日の第二審判決で、出口王仁三郎は治安維持法については無罪となり、不敬罪の懲役5年のみとなりました。

第二次大本事件は治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件でした。