スペインかぜ予防上の注意(県警察部から各警察署への通牒)

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

スペインかぜ(スペインインフルエンザ)の1回目の流行期に和歌山県警察部から各警察署へ書面で通知された「予防上の注意」を熊野・田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事から引き写してご紹介します。『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻(不二出版)より。旧漢字・旧かな遣いを当用漢字・現代かな遣いに変更、一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加。

読み給え
ますます出でてますます猛烈を極むる世界的悪性感冒予防上の注意
これは県警察部から各警察署への通牒です

一 原因
本病原はインフルエンザ菌なるものにより惹起すれども年々地方流行性に発する感冒というものは肺炎球菌、連鎖球菌、加答児(カタル)球菌等原因となる。

二 病原
所在流行性に来る感冒を起こす前種々なる病原菌は鼻咽頭腔気管支等の分泌物すなわち鼻汁痰等に存在す。

三 抵抗力
日光乾燥等に対し薄弱なり。

四 症状
観戦後一日ないし三日の潜伏期を経て突然悪寒戦慄をもって発熱体温三十八度ないし四十度に達し、頭痛、背痛、薦骨痛(腰痛)、関節痛、肢痛、咳嗽咽喉痛を呈し、その結果腸胃を冒され食欲不振便通不規則となり、遂には肺炎、中耳炎、腎臓炎等を併発し不幸鬼籍に入るものあり。而して一般病状の経過は多くの場合において1週間以内なれども併発病等によりそれ以上に亘るものあり。

五 伝染経路
主として人より人へ直接伝染するものにして患者の気道分泌物(痰等)直接あるいは手指、飲食器具等により接触伝染を為し、また飛沫伝染によるものなり

六 予防法
室内の換気、採光、乾燥を充分ならしめ、被服寝具等は時々日光に曝し、平素規則正しき飲食をなし胃腸の健全を図り、また身体被服を清潔にし、皮膚の抵抗力を強からしめ、便通をよくし、含嗽(がんそう:うがい)をなす等一般抵抗力を強め、かつ夜更かし寝冷えせざるよう注意し、なお感冒に罹れるものを訪問するを避け、少しにても気分悪しき時は早速医師に診を乞うべし。
不幸患者発生の際には飛沫伝染性なるをもって家庭においては一定の室に患者を隔離し、患者の使用したる器具等は怠らず消毒をなし、他の家族をなるべく患者に近接せしめざるを可とす。
寄宿舎、工場等多数集合せる所において感冒者発生の際は迅速に隔離するを要す。

 記者曰く脚気病患者および心臓弱き人達がこの病気に罹ると十中八九は助からぬと言う事ですから御注意が肝要ですぞ。

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

ソーシャルディスタンスを保つとか、外出自粛とかはやっていなかったようですね。

スペインかぜ1回目の流行期の熊野地方の学校の状況

大正7年(1918年)11月7日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月7日付『牟婁新報』

およそ100年前の1918年から1920年にかけて世界各地で大流行したスペインかぜ(スペインインフルエンザ)。世界人口の4分の1が感染し、世界で推計4000万人が死亡。日本では3回の流行があり、38万人が死亡しました。

ここでは1回目の流行期の熊野地方の学校の状況を田辺の地方新聞『牟婁新報』の記事を引き写してご紹介します(不二出版の『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻より。旧漢字・旧かな遣いは当用漢字・現代かな遣いに、漢数字は算用数字に、一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加)。

大正7年(1918年)11月7日付

学校と感冒

悪性感冒はますます猛烈の状況にて新宮中学は生徒382名中患者145名の多きに達し、職員中にも8名の患者あり。よって2日より3日間臨時休校を為せり。また同地高等女学校は3日より6日まで臨時休校を為せりと、患者は約30名位あらんと聞く。さて
◆田辺中学は如何と聞くに昨日午前8時には生徒患者数75人あり。
1年 12人、2年 18人、3年 29人、4年 15人、5年 1人
◆高等女学校は幸いにわずかに1人の患者のみなるが、
◆実業学校は昨午後3時まで何らの報告に接せず。
◆田辺小学校は4日は患者142人、5日は218人なりしに昨日午後3時には284人に激増せり。本日から向う4日間臨時休校のよし。

大正7年(1918年)11月7日付『牟婁新報』

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

中学校休業

田辺中学も感冒患者今や107名の多きに達し(内5名職員)、なお蔓延の兆しあるをもって五年級を除く外は来る16日まで全部休業に決せり。5年級のみは今9日より登校する事なるが昨朝喜多幅校医は予防及び療法について一場の講話を為せり。その時の一句、
 インフルはエンサカほいの上り坂 押す人もありひく人もあり
ドウカ押し切る工夫をしたいものなり。

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

スペインインフルエンザは今のCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)に比べたらはるかに感染者数も死亡者数も多いですが、学校は3日や4日、1週間程度の休校で対処していたのですね。

患者の隔離、接触者の行動制限などは行いましたが、感染して生き延びた人たちが抗体を獲得して集団免疫を形成することによってスペインインフルエンザは収束しました。ワクチンや抗ウィルス薬もない時代、それ以外に収束のさせようがありませんでした。

南方熊楠や神社合祀反対運動の盟友・毛利柴庵もスペインかぜに感染

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

およそ100年前の1918年から1920年にかけて世界各地で大流行したスペインかぜ(スペインインフルエンザ)。世界人口の4分の1が感染し、世界で推計4000万人が死亡。日本では3回の流行があり、38万人が死亡しました。

熊野でもスペインかぜは流行し、1回目の流行では南方熊楠や、熊楠の盟友で田辺の地方新聞『牟婁新報』社主の毛利柴庵も感染しました。

1918年12月7日付の『牟婁新報』には熊楠の発熱のことが触れられた文章がありますが、これは熊楠が感染したときのことなのでしょうか。『牟婁新報〔復刻版〕』第29巻(不二出版)から引き写してご紹介します(旧漢字・旧かな遣いを当用漢字・現代かな遣いに変更、一部漢字をひらがなに変更、句読点を追加)。

(十二月三日)午後二時南方大人(たいじん)来社、今日は発熱して、あるいは心臓麻痺の怖れがあるのだが、検事局から呼びに来たので行かねばならぬと話されたから、介抱人として吾輩も出頭した。例の告訴一件について川井検事の申し渡さるる所によると、

 雑賀名誉毀損の件は本人の告訴取下げにより不起訴の処分を為す。
 湊村寄留の件は罪とならざるにより不起訴の処分を為す。

ということで、結局南方大人の大勝利となったわけだ。これで目下編纂中の『南方随筆』が版されたら万歳万歳と言わねばならぬ。

毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

このとき「目下編纂中」であった『南方随筆』が出版されたのは、スペインかぜが終息して6年後の大正15年(1926年)5月。

毛利柴庵自身は11月にスペインかぜに感染していました。

大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

■時
去んぬる十二日以来、悪性感冒に罹り、今なお褥中にあり、体温三十九度八分に達せし時、我は思いき。たとえ肺炎をもって斃るるとも、なるべく他に手数を懸けまじと。
一切の医薬を廃し、ただ虎薬のみ服し、ひたすら時の経過をのみ待てり。悪性感冒は今もってその病原すら知れず。従って適効薬すら無しというなるを、何として安んじて薬というものの嚥まるべきか。我は天地の間何者もあるなし。ただ時あるを知るのみ。
 時よく死を与え、時よく生を与ふ。

■死
体温、ある時は上がり、ある時は下がる。
四肢痛み、腰痛み、背痛み、頭痛む。
心地死ぬべう覚えし事も、五七回はありき。
死ぬのは構わんが、死ぬならば光彩陸離(こうさいりくり:まぶしいほど輝かしいさま)たる新聞を一枚だけこしらえてから死にたいと思う事もあった。
病中に半ペラ新聞を刷っているうちに、死にたくないとの痩せ我慢を起こす事もあった。寧?、新聞を廃刊して、気楽に養生させて欲しいとの希望が再三再四沸くのであった。
曾我部君が肺炎で死にかかっているとの便りを聞いた時はじつに驚いた。吾輩よりも先に失敬せられては大変だと思うたからである。
死、死、死、死は容易に来ずに、予の気分は少しずつ回復して来た。

■病
まだ死なぬなと思い出した時、病の身にあるを知った高垣忠次君の病みて死せるを聞いて驚いた。朝倉夫人、多屋夫人、その他多くの死を聞いて驚いた。大阪では一日三百人以上、田辺でも一日七八人の死は下らぬと聞いて驚いた。
医薬を少しも用いぬ予の如きをナゼ早く殺さぬのだと思う事も度々あった。社員も多く病み、家内も病み、予もまた病む。生も苦なり、死も苦なり、病むも苦なり、苦は一なり。死せずして病むもまた人生の苦しき義務なるにや。

■喧
苦熱悶々、我死地に入れるの時、眼何者をも見ず、耳何物をも聞かでありつるに。日を経るに従って、周囲の雑然たる物音の夥しきに驚かざるを得ざりき。
子供の泣き立つる音。
罵り騒ぐ音。
板の間を走り狂う音。
下手な奴がしきりに電話をかける音。
開き戸の風に煽られる音。
嗚呼、喧しの世や。
一時間だけなりとも、ドコか静かな天地へ行きたいナアと思いつ。(二十三日朝)

毛利柴庵「病間独語」 大正7年(1918年)11月25日付『牟婁新報』

毛利柴庵も死を覚悟し、知人も何人か亡くなり、田辺の町もスペインかぜで大変な状況だったことがわかります。

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』

大正7年(1918年)12月7日付『牟婁新報』の広告欄。左端にあるのが毛利柴庵が「ただ虎薬のみ服し」という虎薬の広告。

大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』
大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

毛利柴庵が発症する前の11月9日付『牟婁新報』の毛利柴庵による「牟婁日誌」には、著名な死亡者の名や、社員や家族が感染したことが書かれています。

七日…
◆感冒で死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎など一溜りもなく倒れた。如露亦如電(にょろやくにょでん:『金剛経』に出る語で、露や電光のように儚いという意味)の世だ。

八日…
◆流行性感冒追々と我が社に襲来し、小守、前田、中山、新谷の雄将女傑相次いで臥床。兵站部も、山の神頭痛を抑えて病中の子供相手の奮闘とて、本日印刷の新聞またまた半ペラと為さざるを得ない。深く読者諸君に御諒恕を願います。…

毛利柴庵による「牟婁日誌」 大正7年(1918年)11月9日付『牟婁新報』

「死者頻々、文士島村抱月、凶悪入江三郎」とある島村抱月は日本における新劇の普及に貢献した劇作家、演出家、文芸評論家。スペインかぜにより47歳で急逝。入江三郎は殺人犯。