本日7月7日は世界遺産の日(和歌山県)

本日7月7日は世界遺産の日(和歌山県) 。
17年前の2004年7月7日に「紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)」が世界遺産に登録されました。

紀伊山地の三大霊場(吉野・熊野・高野)とそれらを結ぶ参詣道は「神道と仏教のたぐいまれな融合」により生まれたものであり、「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す」ものであると評価されました。

世界遺産はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)という国連の専門機関が行っている活動のひとつ。世界的に見て価値のあるものを人類共通の財産として守ろう、そして未来に伝えようという取り組みです。

ユネスコの目的は、教育、科学、文化を通じて世界の平和と安全に貢献することですので、そのユネスコの活動である世界遺産も、その意義は当然、世界の平和と安全への貢献にあります。

ユネスコ憲章(ユネスコの基本方針を定めた文書)の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という1文があります。世界遺産は人の心の中に平和のとりでを築くためのものなのです。

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」:熊野入門

本日6月3日は玄峰老師の命日

本日6月3日は山本玄峰(やまもと げんぽう)老師の命日です。
山本玄峰老師は日本の近代史に大きな影響を与えた、熊野出身の禅僧。
慶応2年1月28日(1866年3月14日)生まれ。南方熊楠より1歳年上です。昭和36年(1961年)6月3日に96歳で亡くなりました。

日本が敗色濃厚ながらも敗北を認められず戦争継続に固執し、被害を拡大させていった太平洋戦争の最中、日本を守るには一刻も早く無条件降伏することだと玄峰老師は鈴木貫太郎首相に進言しました。鈴木首相は玄峰老師の進言を頼りに戦争終結に向けて尽力したといわれます。

玄峰老師は「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じ」という禅宗の始祖・達磨大師の言葉を用いて書簡で鈴木首相を励ましました。

昭和20年(1945年)8月15日正午に日本の降伏を伝えた玉音放送の一節「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」は、玄峰老師の書簡の一節が元になったと考えられています。

また戦後の象徴天皇制も、天皇をどうするかで悩んでいた新憲法の制定委員会が玄峰老師の示唆を受け入れて作り出されたものだといわれます。

玄峰老師が示唆したのは、天皇は一切政治に関係しない、主権は日本国民にあり、天皇を国民全体の象徴とし、政治を担当する者は国民を象徴する天皇の気持ちを受けて政治を行うという形にしてはどうかということでした。

玄峰老師の出身地

玄峰塔

玄峰老師の出身地は湯の峰。玄峰老師の説法を本にした『無門関提唱』に湯の峰について語っている場面がありますので、引用します。

わしの生まれた紀州の屋敷にお湯が湧いた。…その湯が九十六度という熱さじゃ。その下の川のところに行っておるのが九十三度。たくさん湧いておる。…いまはわしの生まれた家もそこにはない。ただ庭になっている。昨年も今年も、お墓詣りにいった。あずまやさんという旅館があって親戚なものだから迎えにくる。…その湯の華をこの間送ってくれた。

これは不思議な効能がある。小栗判官が毒を飲まされて、照手姫が引いて藤沢の遊行寺の一遍上人が世話をした。癩病のようになった判官をあの湯に入れた。それですっかり病気が治ったという因縁がある。…癩患のいるところが別にしてあって、一時は七、八十人もいた。いまは収容所ができて、一人もおりません。不思議に効く湯じゃ。

大きな薬師さまがお祀りしてあるがそれが自然の湯の華のかたまりであって、そこに穴があいていて、元湯が湧いておる。それをある高僧が見つけた。それじゃから清盛が書いた紺紙金泥の経巻もあれば、重盛が書いた紺紙銀泥経巻もある。とにかくもと坊もあり、七堂伽藍がそろうておったのであるが、火災があってみな壊してしまった。そういうところでわしが何の因果か生まれた。

山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、105-106頁

玄峰老師の教え

「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」というのが玄峰老師の教えでした。

磨いたら磨いただけの光あり
性根玉でも何の玉でも

山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、410頁

汽車の走っているのをみると汽車が大きな速力で疾走しているように見えるが、実は下の何もしておらんようにしているレールがちょっと狂うても大へんなことになる。ところがレールの下に晩木(ばんぎ)がある。盤木の下にも、もう一つ大事の土地がある。汽車ばかり走っているのではない。人間お互もそうじゃ。 ちっとも働かんところの土が下にある。これが一番大事である。人間にもそれがある。一向働いておらんようでも、一番働いておるのが性根というやつ。それを感情とか知能とか心とか意識とかいろいろ名をつけておる。人間一番肝心、大切なところが抜かっておる。そのために坐禅弁道して、この一番大切なところのものを捕える。だから坐禅する。なんぼ機械が、どうしたところで、一番大切な性根玉がなければ、正しく動かん。 めいめいも、その一番大切な性根がしっかりしておるかどうか。

山本玄峰『無門関提唱』大法輪閣、126頁

ウガ、地衣、クモ、オカヤドカリ、菌類、変形菌。熊楠が昭和天皇にお見せした標本

昭和4年(1929年)6月1日に南方熊楠が昭和天皇にご進講(御前講義)をしました。

熊楠は標本等をお見せして、その説明を行いました。日本における変形菌研究の先駆者として知られた熊楠ですが、用意した標本は変形菌だけではありませんでした。

まず最初にお見せしたのがウガの標本でした。尾にコスジエボシが複数くっついたセグロウミヘビ。

2番目にお見せしたのが、熊楠がキューバで発見した新種の地衣類、ギアレクタ・クバーナ(Gyalecta cubana)の標本。地衣類は木の幹や岩の上などに生え、一見コケ植物のようにも見える生き物ですが、コケ植物ではありません。菌類と藻類という異なる種の生き物がくっついた共生生物が地衣類です。

3番目にお見せしたのが、海岸の洞窟に棲息するクモの標本。
4番目は、ナキオカヤドカリという木の上で生活するヤドカリの標本。
5番目は、熊楠が二十代前半、アメリカにいたときにウィリアム・カルキンスという植物学者から贈られた菌類や地衣類の標本をまとめた冊子。熊楠自身が採集した標本も付け加えられています。
6番目は、ご進講の前年の秋から八十日程かけて和歌山県日高川町の山にこもって採集した菌類の図譜320種。

そして最後にお見せしたのが、変形菌の標本110点でした。

昭和天皇が熊楠に期待したのは変形菌だけだったかもしれませんが、熊楠はウガ、地衣類、クモ、ヤドカリ、菌類についても講義しました。

自分の生物研究や熊野というフィールドの生物の豊かさを昭和天皇に理解してもらうのは変形菌だけではダメだと熊楠は考えたのでしょう。

セグロウミヘビとコスジエボシが共生するウガ、藻類と菌類が共生する地衣類、それから海洞に棲息するクモ、樹上で生活するヤドカリ、植物のようで動物に近い菌類。そして動物と菌類の間を行き来するかのような変形菌。

熊楠の学問も生物学や民俗学、文学など異なる学問をくっつけるかのような、異なる学問の領域を行き来するものですが、熊野の自然の豊かさが熊楠の学問にも影響を与えたのかもしれません。