生物の大量絶滅

地球上の生物を重量(バイオマス量)で見ると、全生物の8割以上が植物です。

植物が全生物の82%を占め、次に多いのが細菌(バクテリア)で13%、その次が菌類の2%。植物、細菌、菌類で全生物の97%を占めると推定されます。動物は0.4%で、そのうち人間はわずかに0.01%です。

図録▽地球上のバイオマス分布

生物を種で見ると、全生物の6割が昆虫です。人間が知る生物の種は約170万種、そのうちの約100万種が昆虫。地球の生態系にとって大切なのは植物と昆虫です。

現在、全生物のわずかに0.01%しかないたった1種の人間の活動が生態系に崩壊の危機をもたらしています。人間の活動が原因で生物の大量絶滅が現在進行中であり、現在、1年に4万種の生物が絶滅していると考えられています。

1年に4万種の生物が絶滅というのはとてつもなく異常な事態です。100年前には1年に1種の生物が絶滅していたと考えられています。100年前と比べて現在は4万倍のペースで絶滅が進んでいます。

地球上ではこれまで何度か生物の大量絶滅が起きていますが、恐竜が絶滅したのももその大量絶滅のひとつです。

恐竜絶滅時には1000年に1種の生物が絶滅していたと考えられています。現在は恐竜絶滅時の4千万倍のペースで絶滅が進んでいるということです。

南方を訪ねて in 本宮、準備のためのメモ書き

南方を訪ねて in 本宮

南方熊楠顕彰会主催の日帰りバスツアー「南方を訪ねて in 本宮」、おかげさまで無事に催行することができました。ありがとうございます。

以下はその準備のために書いたメモ書きの一部です。
実際のガイドのときにはお話ししないことが大部分ですが。


世界遺産登録20周年記念なので、南方熊楠が訪れた場所で世界遺産の登録資産を訪ねたい。そうすると熊野本宮大社湯の峰温泉が候補地として挙げられる。

熊野本宮大社も湯の峰温泉も熊楠が訪れたのはたぶん1回だけだが、どちらも面白い場所。
熊楠は熊野本宮大社を「日本国現世の神都のごとく尊崇され」た場所だと述べ、旧社地・大斎原の「老大樹林こそ…わが国の誇りともすべき物」だと述べた。湯の峰温泉では熊楠は温泉藻と鉄バクテリアらしきものとユノミネシダを採集した。どれも興味深い生物で、生物学者としての熊楠に触れてもらえる。

2つの登録資産を結ぶ山越えの道が世界遺産の熊野古道・大日越。本宮祭初日の湯登神事で歩く道。
熊楠は大日越を歩いていないが、本宮と湯の峰を訪ねるなら、この道を歩きたい。
歩く距離は3kmほどで昼頃スタートのウォーキングには手頃なコース。

熊楠が熊野本宮大社と湯の峰温泉を訪れたのは明治41年(1908)11月。
熊楠はこのとき本宮方面に植物採集の旅をしていた。
11月7日出発、12月2日帰宅。26日間の旅。

明治41年(1908)1月の日記
本宮行植物採集予期点数
  粘菌 50
  蕈菌及黴菌 500(内画附150)
  地衣 100
  藻 200
  輪藻 5
  蘚苔 50

湯の峰

日記)
明治41年(1908)11月28日
午後、宿を出て湯の峰に行き、熱泉及び泉流の下の川中の藻を数種とる。
「ユミドリ」(レプトスリクス?)もとる。乾して火で煮るという。野田が予のためにとるに、湯は甚だ熱くなかなか骨が折れる。
ユノミネシダ(オンセンシダともいう)をとる。
帰ると夕方である。宿の湯室のポンプが壊れて湯が行かず、夕方と夜、川端の湯窪に入る。

・午後、川湯温泉の宿・田辺屋を出て湯の峰に
 田辺屋は、熊楠の友人・石友(石工の佐竹友吉)の義理の父親(妻とくの父親)前田富蔵が経営する宿。
 たぶん川湯峠を越えて渡瀬を経て湯の峰に。夕方に川湯に戻る。川湯・湯の峰間は約2.5km。徒歩1時間ほどか。

・温泉藻(おんせんそう)をとる
 温泉藻は温泉に生息する藻類。50〜80℃の高温の湯の中で生育可能。
 湯の峰温泉を流れる湯の谷川には温泉藻が生える。
 湯の峰温泉の源泉の湯温は90度以上で、湯の谷川は温泉の湯と上流からの川の水が混じって流れる。

・「ユミドリ」(レプトスリクス?)をとる
 ユミドリは「ユミドロ」か。「みどろ」は汚いと感じられる物が一面についている状態をいう。
 レプトスリックス属(Leptothrix)は鉄バクテリア。
 水中に生息し、水中に溶けている鉄分を酸化する際に得られるエネルギーを用いて二酸化炭素から有機物を合成する化学合成生物。属名は細い毛を意味する。酸化された鉄は鞘上に沈着する。赤褐色の沈殿物や水面に油のような皮膜が発生する。

・ユノミネシダをとる
 ユノミネシダは1887年(明治20年)に湯の峰温泉で発見。熱帯から亜熱帯にかけて広く世界に分布する暖地性の中型シダ植物。英名はBatwing fern(バットウィングファーン、コウモリの羽のようなシダ)。
 湯の峰温泉の自生地が日本におけるユノミネシダの分布域の北限とされ、1928年(昭和3年)にユノミネシダ自生地として国の天然記念物に指定された。その後、静岡県・伊豆半島でも見つかり、現在は伊豆半島が北限。
 二酸化硫黄(亜硫酸ガス、火山ガスの主要成分)に対して強い耐性を持つと考えられる。二酸化硫黄は植物にも有害、光合成が阻害される。東京都の三宅島で2000年に火山が噴火し、その後、ユノミネシダが二酸化硫黄の高濃度地域を中心に著しく増加した。
 葉の先端が無限成長する。日本では2m程度だが、熱帯では蔓状に伸びて10mにもなる。

・湯の峰では温泉には入らず
 湯の峰の温泉には入らず、川湯の宿に帰って、夕方と夜に川端の湯窪に入る。
 湯の峰で温泉に入っていたら夕方までに川湯温泉の宿に帰れなかった。
 湯の峰温泉のつぼ湯は世界で唯一の貸切入浴できる世界遺産。

熊野本宮大社

日記)
明治41年(1908)11月23日
朝、栗山氏を辞し、村後の小丘を越え、大居へ回らずに、本宮に行く。
祭日につき、神官らしき人が奔走している。
玉置屋という茶店にて餡餅を食いに行くと、□□という所に新平民が住む。ここにて須川隆吉の息子ミノルが来る。
予は気づかず、馬吉が話をする(馬吉方に下宿したことがあるのだ)。後で聞くと、徴兵に当たり25日に出立とのこと。
請川から川湯の田辺屋へ帰ると4時頃である。
夜、鳴石四郎氏(※成石平四郎)が来てちょっと話す。予が田辺で1度会ったことがある。

・明治41年11月23日
 116年前。新嘗祭の日。

・朝、萩を出て本宮に
 玉置山からの帰り、20日から伏拝村・萩の栗山弾次郎の新築の病院に宿泊。朝、萩を出て本宮に。本宮から請川を経て夕方に川湯温泉の宿・田辺屋に。

・村後の小丘を越え、大居へ回らずに
 萩から伏拝(あるいは三軒茶屋跡か)を経て熊野古道・中辺路を通って本宮へ。

・祭日
 新嘗祭、稲の収穫を祝い、来年の豊穣を祈る式典。

・玉置屋という茶店にて餡餅
 本宮で代々神職を世襲してきた家柄に玉置家があった。明治時代に神職の世襲は禁止された。
 玉置家の神職で有名な人に玉置縫殿(たまきぬい)。江戸時代後期の熊野三山総代。熊野三山修復の名目で諸国で富くじ興行を行って利益を上げ、江戸紀州藩邸に熊野三山貸付所を設けて大名や豪商を相手に金貸し業を営んだ。

・徴兵
 知人の息子が徴兵に当たり近日に出立するとの話を聞く。明治時代になって満20歳以上の男子は兵役の義務を負ったが、戸主や長男、役人の子などは兵役を免除されたので、若者の多くは分家や養子縁組などの戸籍操作で徴兵逃れを行なった。「徴兵、懲役、一字の違い、腰にサーベル鉄鎖」という唄が流行るほど徴兵は逃れたいものであった。次男である熊楠は明治19年に19歳で海外に留学し、徴兵を逃れた。明治22年の徴兵令の改正で免役規定が撤廃されて、一般の若者は徴兵逃れができなくなった。明治41年は日露戦争(明治37〜38年)終戦から3年後。

・成石平四郎と会う
 夜、宿に成石平四郎が来る。
 大逆事件の犠牲者。天皇暗殺を企んだとの国家権力によるでっち上げの事件で逮捕されて、死刑に処された12人の1人。
 川湯温泉近くの人。熊楠が初めて会ったのは3年前に田辺で。共通の友人・川島草堂の引き合わせ。今回2度目の出会い。
 この2年後に大逆罪で逮捕され、翌年、処刑された。

川湯温泉

1回目
那智から田辺に向かったとき1泊

日記)
明治37年(1904)10月7日
・川湯藤屋小渕藤右衛門方に宿泊
 朝、小口を出て熊野古道・小雲取越、請川、2時頃に川湯に着く。
 藤屋小渕藤右衛門は岡野周蔵の知人。

・川湯の藻(青のりのような藻、ピソフォラ? Pithophora アオミソウ属)
 いつもは多くあるが、5日前(10月2日)の大雨で流失し、とれず。

・翌日、川湯峠でミズモランをとる
 朝4時前に起き、川湯峠を越え、檜葉、皆地、平井川谷、野中、近露へ。
 ミズモラン(ジンバイソウ)はラン科ツレサギソウ属の多年草。

2回目
本宮方面に植物採集の旅に出かけたとき12泊(5泊+7泊)

日記)
明治41年(1908)11月12〜17日・23〜30日

11月7日に出発、栗栖川、野中、武住3泊、川湯田辺屋5泊、玉置口、玉置川、切畑に行こうとして迷い山中泊、萩(栗山弾次郎の新築病院3泊)、(本宮)川湯7泊、武住、十丈峠、田辺着

○は川湯田辺屋に宿泊

○11月12日
・1時過ぎに川湯着、田辺屋前田富蔵方に宿泊
 前田富蔵は熊楠の友人・石友(石工の佐武友吉)の義理の父親(妻とくの父親)。

・バトラコスペルマム(Batrachospermum カワモズク)等を見つける

○11月13日
・成石橋の上流まで行き、藻をとりながら川を遡上
 ヒジキ様の藻、バトラコスペルマム(カワモズク)、胞子体(チャントランシア期)の美しい碧緑色の藻、ヒジキ体の藻(チュラメラ Tuomeya属か)

・夕方入湯、夕飯後にまた入湯

○11月14日
・前田富蔵の案内で鳴谷の滝へ
 鳴谷の大滝は落差80mの直瀑。鳴谷は「那智の48滝、鳴谷の46滝」といわれるほどに滝が多い。瀧本は47滝。

・カノヘゴ
 静川村の宮の辺のカシの木に生ずる。酒によい。

・カラマツ
 静川の寺の境内にカラマツ、枝をとる。

・和田清一という店
 酒を飲む

・天狗
 栗山の祖先が天狗を斬って刀を洗ったという水が滴る所がある。

・8時過ぎに宿に帰り、入湯

○11月15日
・朝、下流で藻をとる

○11月16日
・朝、上流を歩く

・薬師堂
 女人が髪をきり、また耳石といって石に穴があるのをつないで、納めてある。
 耳の病にご利益があり、祈願がかなったらお礼参りに耳石を供えた。
 川湯十二薬師は川湯温泉の守り本尊。現在は神経痛、内臓病の回復祈願にご利益ありとされる。江戸時代初期には対岸にあった。

・午後、野田氏にチュラメラのようなヒジキ様の藻をとらせた。

11月17日
・船で玉置口へ

・途中、シユモク山にてカワウソを見る

11月18日
・木馬道を歩いて玉置川へ

・途中、瀞八丁

11月19日
・木馬道を歩いて玉置神社

・切畑に向かうが山中で野宿
 脚がひどく痛み、睡らず。

11月20日
・切畑に出て、渡し船で萩へ

・栗山弾次郎氏を訪ねる
 妻が亥の子餅(餡入り)を焼き、砂糖を添えてくれる

・鶏で饗せられる。

・□ノ谷の滝を見る、藻をとる
 ヒ(火か日か)の谷の滝か。

・新築の病院に宿泊

11月21日
・うかれ節(浪花節)の名人の14歳の男の子

11月22日
・鯉で饗せられる。

・川辺で苔と藻、ミゾホオヅキの花のあるのをとる。

・銭湯に入る。筏乗りが多く来て、売婬女と戯れて大いに喧しい。

○11月23日
・本宮へ

・4時頃に川湯田辺屋に着
 成石平四郎が来てちょっと話す。

○11月24日
・午後、野田氏にヒジキ体の藻をとらせた。

○11月25日
・夕方、川側の浴場で知人の老母の姉に会う。

○11月26日
・朝起きると脚の痛みがすっかり治り、それよりしばしば入湯。

・夕方、上流で川中の岩に生えた地衣をとる。

○11月27日
・湯の峰へ行こうと弁当を拵えたが行けなかった。

・船で川向へ渡り菌をとる。

○11月28日
・湯の峰へ
 温泉藻、鉄バクテリア、ユノミネシダをとる

・夕方と夜、川端の湯窪に入る

○11月29日
・田代へ

・夕方と夜、川べりで入湯
 鴨緑江(おうりょくこう)まで出稼ぎに行った筏師に会う。
 日露戦争後、和歌山・奈良を中心に筏師が集められ、鴨緑江上流域に送られた。
 北山川の筏師の最初の朝鮮への出稼ぎは明治39年(1906)。日露戦争終戦の翌年。

11月30日
・耳石を得る
 朝、野田氏が予のために耳石を3個もらう。予は昨日1個もらった。

・午後3時頃に出立

・武住大黒屋に宿泊

南方を訪ねて in 本宮、無事催行できました

湯の峰温泉(ツアー中は写真を撮らなかったので、写真は過去に撮影したものです)

南方熊楠顕彰会主催の日帰りバスツアー「南方を訪ねて in 本宮」、おかげさまで無事に催行することができました。ありがとうございます。

今年は「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録20周年を記念して、世界遺産の登録資産で南方熊楠が訪れた場所を訪ねたいとのことでコースを考えました。すると熊野本宮大社湯の峰温泉が候補地として挙がります。熊野本宮大社も湯の峰温泉も熊楠が訪れたのはたぶん1回だけですが、どちらも熊楠を語るうえで面白い場所です。

熊楠は熊野本宮大社を「日本国現世の神都のごとく尊崇され」た場所だと述べ、旧社地・大斎原の「老大樹林こそ…わが国の誇りともすべき物」だと述べました。湯の峰温泉では熊楠は温泉藻と鉄バクテリアらしきものとユノミネシダを採集しました。どれも興味深い生物です。

熊野本宮大社と湯の峰温泉、この2つの登録資産を結ぶ峠越えの道があり、それが世界遺産の熊野古道・大日越です。熊楠は大日越は歩いていませんが、本宮と湯の峰を訪ねるなら、この道を歩きたいと思いました。

大日越は距離は短いですが、登り下りがきつい所もあるので雨が心配でしたが、お天気にも恵まれて本当によかったです。

ご参加いただきました皆様、まことにありがとうございました。