南方熊楠Tシャツの新商品が出来ました!

南方熊楠顕彰館オリジナルの南方熊楠Tシャツの新商品ができました!

南方熊楠顕彰館にて4月23日に販売開始いたします! 50枚しか作っていません!

今回のTシャツは、田辺の人が「ウガ」と呼ぶ海生生物をモチーフにしました。

南方熊楠が描いたウガの図や英字のサインを組み合わせて、私が大まかなデザインをしました!

熊楠が昭和天皇に講義を行った際にまず最初にお見せしたのがウガのアルコール漬けの標本でした。

ウガは、セグロウミヘビというウミヘビの尾にコスジエボシという動物が複数付いた、不思議な生物です。田辺の漁民の間ではウガの尾を切り取って船玉(船中に祭られる船の守護神)に供えると漁に恵まれるとされました。

セグロウミヘビは太平洋、インド洋の暖海域に生息するウミヘビで、暖流に乗って大洋を漂流し、日本近海にも現われます。水陸両生ではなく、ヘビの中で唯一の一生を海の中で過ごす外洋性のウミヘビです。その生態は解明しきれていませんが、海流に乗って何千kmも大洋を移動するという漂流生活をしているようです。

コスジエボシは蔓脚類に属する動物。フジツボの仲間です。フジツボというと磯の岩場に貼り付いている富士山型のものが思い浮かびますが、このフジツボには貝殻がありません。海流に乗って漂流する流木などに付着して漂流生活をします。

コスジエボシの幼生は海中を泳いで移動し、ある段階で漂流しているものに取り付きます。取り付いた先がたまたまセグロウミヘビであったときにウガが誕生するということになります。

昭和天皇にお見せしたウガにはさらにアマモという海草も付着していました。

熊楠が昭和天皇への講義のなかで最初にお見せしたのがウガであり、最後にお見せしたのが変形菌でした。ウガはウミヘビとフジツボがくっついた生き物であり、また変形菌にしてもアメーバとキノコという異なる種の生き物がくっついたかのような生き物です。

このような異なる種の生き物がくっついたようなものに熊楠は興味があったようです。熊楠は淡水性の亀に藻を生やして蓑亀にするという実験も行っていました。

また熊楠は男女の二つの性を合わせもつ半男女についても強い関心を示しました。異なる二つのものがくっついたような存在に熊楠は惹かれたようです。

熊楠の学問も博物学や生物学、文学、人類学、宗教学、民俗学など様々な異なる学問をくっつけるかのような、異なる学問の領域を行き来するものでした。

Tシャツの色は、セグロウミヘビの背が黒く腹面が黄色い体の色から取りました。

本宮祭にご参列いただき、ありがとうございます

熊野本宮大社例大祭・本宮祭の撤収作業を本日終えました。
本宮祭にご参列いただき、まことにありがとうございます。氏子総代として感謝申し上げます。

今年の本宮祭には世界8ヵ国の外国人の参加がありました。

熊野本宮大社は世界遺産です。
世界遺産はユネスコの事業で、ユネスコの目的は、教育、科学及び文化を通じて世界の平和と安全に貢献することにあり、世界遺産の意義も世界の平和と安全への貢献にあります。

世界遺産となった熊野本宮大社にも世界の平和と安全への貢献が求められます。
外国人のお祭り参加も、ささやかながらも世界の平和と安全に貢献することを目指しての取り組みです。

猿まわしと熊野

新年元日から4日まで熊野本宮大社旧社地・大斎原の大鳥居下にて「日光さる軍団」による「伝統芸能猿まわし特別公演」が行われました。

日光さる軍団が関西の寺社で公演するのは今回が初めてのことでしたが、数ある寺社のなかで熊野本宮大社が関西初公演の場所に選ばれたのには理由があってのことと思います。

猿まわしは古くは猿引(さるひき)、猿飼、猿舞などともいわれました。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』の「獼猴(さる)」の項には「紀州の岸の甚兵衛が猿まわしの始め」だとの説が記されています(現代語訳てつ)。

畜之者【紀州岸甚兵衛猿引之始云云】令携扇及鞭爲舞曲容

(訳:猿を畜う者【紀州の岸の甚兵衛が猿引の始めという話である】は扇と鞭を携えて猿に舞曲の形を行わせる)

『和漢三才図会』巻之四十「寓類 恠類」

「岸の甚兵衛」は紀伊国貴志荘の猿まわし師の棟梁「貴志の甚兵衛」でしょう。貴志の甚兵衛は熊野出身だといわれます。

江戸時代の紀伊国の地誌『紀伊続風土記』の梅原村の項には次のように書かれています(現代語訳てつ)。

大歳ノ社(おおとしのやしろ:現・大年神社)の南に猿舞師九戸あり。貴志の甚兵衛猿といふ。四方に行き猿を舞して観場(かんじょう:多くの人に物品などを見せる所)に供す。国中に猿屋二箇所あり。一は那賀ノ群上田井村にあり。当村の猿舞師慶長ノ頃奥熊野四村ノ荘高山村より移りしといふ。

(訳:大歳ノ社の南に猿舞師の家が九戸ある。貴志の甚兵衛猿という。四方に行って猿を舞わして観場に供する。紀伊国の中に猿まわし師が住む地域が2箇所ある。ひとつは那賀郡上田井村にある。当村の猿舞師は慶長の頃に奥熊野の四村荘高山村より移ったものだという)

『紀伊続風土記』巻之八

梅原村は現・和歌山県和歌山市梅原で、高山村は現・和歌山県田辺市本宮町高山です。

『紀伊続風土記』の高山村の項には次のように書かれています(現代語訳てつ)。

又当村に旧猿引あり。熊野猿といふ事此村の猿の事なりとぞ。名草郡貴志村(きしむら:紀伊国名草郡貴志荘、現・和歌山県和歌山市)の猿引は慶長の頃此村より移りしなり。

(訳:また当村では昔から猿引がある。熊野猿というのはこの村の猿のことであるとのこと。名草郡の貴志村の猿引は慶長の頃にこの村より移ったのだ。

『紀伊続風土記』巻之八十五

高山は熊野本宮大社がある和歌山県田辺市本宮町本宮の東に隣接する地区です。日本における「猿引の始め」といわれる「紀州の岸(貴志)の甚兵衛」の出身地と伝わる地区のすぐ近くに熊野本宮大社は鎮座します。

関西の寺社で猿まわしの初公演を行うのに熊野本宮大社以上にふさわしい場所は他にはないと思われます。

私は1度だけ公演を見ることができましたが、そのときには猿が高山の方向を気にしていて、面白く思いました。

今年2024年、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は登録20周年を迎えます。新年元日から行われた猿まわしが最初の20周年記念イベントとなりました。